日めくり詩歌 自由詩(岡野絵里子)

小銃   藤井貞和

射すくめられるのはなぜだろう、視線で? どこにもない争点を、
あなたは書いた。 遺書と、ちいさな武器だったけれど、
その武器を棄てることにした、と、もっと小さな字で、書かれて、
あった。 「ぼくらは」とあなたは書いた、「明け方の夢に見たあの一冊を、
この世にのこそうとしたにすぎない」。 しかし、だれが、
裁くのだろう。 考えたこともない、むずかしい宿題はあとまわしにしよう。
美しい、くねる、まがる使いの蛇が坑内に満ちる、散る光の箭に野のすえが近くなる、
錆をそらし、卑金属の棒で、すっとひっかいた条痕のむこうの消失点、
すべてをのこすという遺書、ちいさな字で。(小銃という比喩、
だったのかもしれない。 恐怖がそらされ、人と人とが、
まじわりを試みるとき、この小銃らを棄てる、という誓い。)

「神の子犬」 書肆山田 2005年


 この震災を経験した直後は、泥という字、壊という字を見ると、はっとして体が震えた。液状化現象で街が泥に埋まり、家が半壊したからだ。そして欠乏に苦しんだので、水という字が眩しく見えた。今でも、痛みを知らない言葉は読みたくないと思ってしまう。

 「小銃」は謎を入れた箱のような詩だ。「あなた」に何が起きたのだろうか。作者は何を目撃したのだろうか。だが、この箱を差し出している作者は、生きる痛みをちゃんと知っている。

 遺書を残していなくなった人。その人が詩人であったのなら、「武器」とは言葉のことだと思われる。言葉を棄て、生きる戦いを止めるという。「明け方の夢に見たあの1冊を、/この世にのこそうとしたにすぎない」とは切ない。1冊の名著を後世に残すのが、もの書きの夢の一つ。そしてまた、明け方の星のような1冊を心に秘めてもいる。

 「どこにもない争点」を論じていたのかもしれなかったが、彼のまなざしに、遺書を読む今も、射すくめられるほどの畏敬を覚える。蛇が体をくねらせ、暗い坑内一杯になる。箭のような陽光の下、野が近づいて来る。どちらもつらい心がもたらしたイメージだ。書くという行為は、いつか錆びる金属が引っ掻いたかすかな条痕にすぎない。だが、彼方に消えて行った者の記憶が私たちには残る。それは託されたものなのだ。

 詩人が世界を認識する道具としての「小銃」と、戦地で使われる兵器としての「小銃」の比喩が重なる。もしかすると、言葉を武器と考えていた人生観自体が、彼を追い詰めたのかもしれない。人が理解し合う時、武器はいらない。言葉が例えば、被災地に運ばれる一杯の水のようであったなら。そう思う時、「この小銃らを棄てる、という誓い」が輝く。

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