日めくり詩歌 自由詩(久谷雉)

はるあさ ロバート・ブラウニング 上田敏訳

ときはる
あした
あした七時しちじ
片岡かたをかつゆみちて、
あげ雲雀ひばりなのりいで、
蝸牛かたつむりえだひ、
かみ、そらにろしめす。
すべてことし。


*初出は「萬年草」(1902・12)。のちに本郷書院から刊行された単行本『海潮音』(1908)に収録。

 この詩は元々一篇の独立した作品ではありません。1841年に発表されたロバート・ブラウニングの劇詩“Pippa Passes”に登場する少女・ピパが劇中、彼女の働く絹糸工場の主の屋敷の前でうたう歌であることは、すでにご存じの読者も多いでしょう。屋敷の中では、前夜に主を殺害した妻とその愛人が、ピパの歌声を聴いています……。

 上田敏は本作の収録されている訳詩集『海潮音』に於いて最後の二行を、ブラウニングの「楽天説」の「綜合せられた」ものであると紹介しています。また、富士川義之氏によると、「最後の二行はピパの無心さを表しており、従来しばしば指摘されてきたブラウニングの楽天主義的な人生観自体のストレートな表明ではないとする解釈が近年では有力」になっているそうです。つまり劇中歌であることにウェイトを置いて考察する必要があるというわけです。ブラウン神父譚の書き手として日本ではよく知られている、評論家のG・K・チェスタトンは、“Pippa Passes”について、「世の甘さも辛さも知った大人が悲劇の決定的瞬間にふとあどけないひとりの子供の歌を耳にしたらどうなるかを描く」「大胆で、感動的な着想」の作品であるとしています。

 原文の最終行‘All’s right with the world!’の意味を直に取ろうとすると「この地上の生きとし生けるすべてのものがそれぞれに所を得て生きているということ」(富士川氏)になるそうですが、上田はこれに「すべて世は事も無し。」というたった十文字の実にシンプルな訳語をあてています。また、このフレーズによってピパの歌の飾り気のない強さ――またそれはおそらく「神」の存在感の支えにもなっています――が、一層引き立てられているかのようです。上田が果たして原典を全篇読み通した上で本作を訳したのかどうか、今回調べた限りでは分からなかったのですが、殺人者たちの罪の意識を決定的に呼びさました歌声の無垢が、見事に宿っている訳なのではないでしょうか。今年の春はいままでに経験したことのない慌ただしさで過ぎ去ってゆきましたが、人間というものに対する考え方が私自身、だいぶ揺さぶられたように感じています。穏やかな日ざしや萌え出たばかりの草の緑にむきあうたび、かすかな救いのようなものを感じる一方で、おのずと何かを糺されているような気持ちになる、そんな春でした――。

引用および主な参考文献

  • 『定本上田敏全集 第一巻』――教育出版センター(1978)
  • 富士川義之編『対訳 ブラウニング詩集』――岩波文庫(2005)
  • G・K・チェスタトン/中野記偉訳『G・K・チェスタトン著作集〈評伝篇〉 第三巻 ウィリアム・ブレイク/ロバート・ブラウニング』――春秋社(1991)
  • 松浦美智子「Pippa Passes 試訳と註(Ⅱ)」――「英米文学研究29」梅光女学院大学英米文学会(1993)


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One Response to “日めくり詩歌 自由詩(久谷雉)”


  1. 久谷雉
    on 5月 12th, 2011
    @

    追記です。

    上田が原典をすべて読んでいたかどうかという問題に関してですが、『日本近代文学大系52巻 明治大正訳詩集』(角川書店、1971)に於いて、森亮氏が付した註釈によると、本作品はPippa’s songとして単独に詩のアンソロジー等に採られていることがあるそうです。また単行本では原典のタイトルを『ピパの歌』という題名で上田自身が記していることも考え合わせると、その類の資料から訳出された可能性は高いと考えられます(あくまでも推測に止まりますが)。一番はじめに目を通しておかねばならない資料だったのですが、震災の影響で本日まで私の在籍する大学の図書館では閲覧できない状況でした。ごめんなさい。

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