われわれはみなマイナー・ポエットである 井川博年
講演などするなかれ
郊外の小綺麗な家に住んで
詩のわかる妻女と暮らすなかれ
大学で詩など教えるなかれ
わけてもテレビなどに出るなかれ
ホテルのパーティでスピーチするなかれ
なんとか大会に出るなかれ
片隅にひかえているのだ
誰からも相手されず
ひっそりとさびしく電車に乗り
木枯らしに巻かれて逃げるように
地下の酒場に下りていって
バーのカウンターに肩肘ついて
小声でつぶやくのだ。
「われわれはみなマイナー・ポエットである」
*詩集『平凡』(思潮社・2010年)に収録
この世界の片隅でじっと息を潜めて暮らしてゆくのは、案外むずかしいものだ。もしかすると中途半端に名前を売る以上の努力と才能とが必要になるかも知れない。ましてやそれに〈書く〉という行為が加わるとなると。
僕自身も十代の終わりくらいには、「マイナー・ポエット」になることを望んでいた。仮に身のまわりにある小石や草木から、百の言葉をみちびきだせるとしても、自分の詩を通して再現するのは敢えて四十くらいまでに抑える(勿論、それは単に一篇あたりに用いる言葉が、多いか少ないかという、計量的な問題とは別の話である)。これでは、決して大きな詩人にはなれない。しかし、何とか沈黙のままにしておいた六十が、僕の生活に善き彩りを加えるだろう――。
いまから振り返れば、なんとおめでたい確信なんだと感じてしまう。二十歳を越えるとものをみつめる能力ががくんと落ちてしまう、ということへの想像力がまったく回っていなかったのだから!
今回とりあげた井川さんの詩は一見、お説教っぽくも読める。おそらく十代の半ばの頃にこれを目にしたら、さっさと読み飛ばしてしまっていただろう。しかしいまの僕には「なかれ」の一つ一つが、ほろ苦い。そして最後の「小声でつぶや」かれる宣言も。