日めくり詩歌 短歌 斎藤寛(2011/10/3)

有罪(ギルティ)と己を断ずるほかはなくタオルなどは投げてはならず    志賀耿之


「短歌人」2007年7月号に掲載された作品。「あるいは日常」と題された一連8首のラストに置かれた歌である。作者の志賀さんは、昨年9月に他界された。

この一首だけを独立した作品として読むならば、哲学的とも言える歌であり、短歌という詩型はただ一首でこれだけのことが言えるのか、と改めて思い、そして大いに共感する作品だ。読者は思わず自らをかえりみて、「有罪と己を断ずるほかはなく」という上の句に頷くだろう。さらには、「原罪」という言葉までもがおのずと浮かんでくることになるかも知れない。しかし、だからこそ、「タオルなどは・・・」と続く下の句は、作者が自らに言い聞かせているフレーズではあるのだが、あたかも読者に対する深い励まし、生きることへのエールのように響く。この上の句と下の句の接続詞抜きの続き具合が、一読の限りではわかりにくいがゆえに、読者は繰り返しこの一首を読むことをうながされ、そして、読み返すほどに一首の含蓄がじわじわと伝わってくる。作品の深さは適度なわかりにくさによってもたらされることもあるのだ。

もとの一連は《息ごとに泥濘歩むやうな音肺腑に水のたまりゐるらし》から始まる。体調が急変し集中治療室に運びこまれるという、非常事態を題材としたものだ。2~4首目は略して、5首目は《何を灼く燃やすものなき血脈を熱く滾りて造影剤はしる》。6首目は《支ふるべき志(こころ)などはやあらざるに冠動脈に五つの金属支柱(ステント)》。7首目は《耳につく機械音のみ響きゐる集中治療室の夜のしじまに》。その後にこの《有罪と・・・》が置かれることによって、「あるいは日常」というタイトルがようようにして立ち上がる。7首目から8首目への微妙な跳び方が、この一連をいっそう印象深いものにしていると思う。

一連で読んでも印象深い作品だが(なにしろ生命の危機と引き換えに得た歌群なのだから)、特にこのラストの一首をわが愛誦歌としたい、という思いに僕は駆られる。志賀さんがこの世に遺してくださったエールは、今も生き続けている。尾崎左永子さんの《時超えて残るものもしありとせば紡(つむ)ぎて光ることば一片(ひとひら)》(「星座」16号 2003年7月)という一首が、あたかもこの志賀さんの作品へのオマージュであるかの如くに想起される。

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