日めくり詩歌 俳句 高山れおな(2011/10/17)

三十七番 かも知れず(俳句の「型」研究 【4】)

左持

遍路笠一人はピエロかも知れず 対馬康子

ぼうたんの内はどろどろかもしれぬ しなだしん

下五に「かも知れず」と置くのは、山口誓子『和服』(一九五五年 角川書店)の昭和二十四年の章に載る

海に鴨発砲直前かも知れず

が先蹤であると何かの本で読んだことがあるが、本当にそうなのだろうか。しかし、仮に先行例があったとしても、この言い回しが型と言い得るほどに盛んに使われるきっかけになったのが誓子句であるということは、大いにありそうだ。ともかく誓子の戦後の代表句のひとつには違いないのだから。

それでも以前ほどは見かけないような気がしていたところが、右句を収めた句集では「かもしれぬ」というヴァリエーションを含め、四回も登場していた。右句以外の三句は以下のとおり。

恋をしてからびし蚯蚓かもしれず
赤道を見てきし海月かもしれぬ
みづうみは織女の鏡かもしれず

「みづうみ」句は見立てに冴えがなく、「赤道」句は誇張が空転している。「恋をして」句は悪くはないものの、なんとなく既視感を覚えたのと、上五の表現がやや間伸びしているところから、「ぼうたん」句を右句として掲げた。牡丹の妖艶さを詠むべく、多くの俳人たちがさまざまな工夫を凝らしてきた中で、この「どろどろ」はありそうでなかった新趣向ではあるまいか。

一方の左句はあきらかに、攝津幸彦の

野を帰る父のひとりは化粧して

の影響を受けた奇想の句。攝津句における父の切なさが、ピエロと遍路という、これまたいずれも切なさを本意とする素材を相乗させる形で、変奏されている。

「かも知れず」というレトリックは、オリジンである(かもしれない)誓子句においては、あり得べきカタストロフを提示することで、作者の緊迫した感覚・感情を表現していた。しかし、その後の多くのケースではむしろ、基本的にはあり得ない事柄を、比喩として差し出すためのレトリックと化しているように思える。左右両句とももちろんその例に洩れないし、その目的は充分はたされているようだ。かれこれ考えても優劣はつけがたく持。

季語 左=遍路(春)/右=牡丹(夏)

作者紹介

  • 対馬康子(つしま・やすこ)

一九五三年生まれ。中島斌雄に師事。有馬朗人主宰の「天為」創刊に参画。掲句は、第三句集『天之』(二〇〇七年 富士見書房)所収。

  • しなだしん(しなだ・しん)

一九六二年生まれ。「青山」同人。「田」創刊に参加。掲句は、第二句集『隼の胸』(二〇一一年 ふらんす堂)所収。

タグ: , ,

      

Leave a Reply



© 2009 詩客 SHIKAKU – 詩歌梁山泊 ~ 三詩型交流企画 公式サイト. All Rights Reserved.

This blog is powered by Wordpress