日めくり詩歌 短歌 斎藤 寛 (2011/11/22)

わがものにあらざるわれを寝ころがす那由多の波の寄る青島に    伊藤一彦


伊藤一彦さんの第十歌集『微笑の空』(角川書店刊、2007年)より。宮崎で生まれ育ち、東京の大学で学んだ後、東京に留まることなく再び宮崎へ帰ってその地に暮らしてきた伊藤さんにとって、青島は馴染み深い地なのだろう。だからこそ、このような哲学的な問いも浮かぶのだろうか。

思うに、「私の身体」「私の心」「あなたの身体」「あなたの心」などという言い方は、とてもヘンな言い方である。「身体」とは「心」とは、ほかならぬ「私」「あなた」そのものであろうに、なぜにわれわれは「身体」や「心」をあたかもモノの如くにみなし、「my」「your」などという所有格で言い慣わすようになったのだろうか。この歌集の中に、《もう一人の自分がゐると語る子ら増えつつあるは「進化」ならむか》という歌もある。この問いはもっぱら特定の「子ら」に向けられているわけではあるまい。歌を詠む時、「もう一人の自分がゐる」ように感じることはよくあることであろうし、歌に限らず、およそ言語というのは、三浦つとむが論じていたように、「われ」を観念的に二重化することによって成り立つ営みであったのであろうから。とすれば、それを、すなわち自然の地平からヒトが離陸してしまったことをただに「進化」と言ってはばからないような軽薄な判断は、もとよりわれわれの選択ではない。と考えつつ、なお歌を詠むというのは、思えばけっこう大変なことなのだ。

この一首においても、「われが寝転ぶ」と言えばそれでもよさそうなところ、「われが(とは表立って言われてはいないが)われを寝ころがす」、という捩れた言い方がまず設定され、しかし、その「われ」は「わがもの」ではない、という反省が来るのだ。離陸してしまったことを否定せず、しかし、離陸してしまったことをそのまま良しともしない、という思索の境位が表出されている歌なのだろう、と思う。《わたくしをわたくし探さばその間のわたくし不在 梟が啼く》とも詠まれている。離陸した者の症状が進むと「自分探し」などという妙なことを言い出したりもするのだが、伊藤さんは「わたくし」を探している間は「わたくし」は不在でしょう? と言い、その「不在」の方に目を向けようとしている。

「わがものにあらざるわれ」ならば、それは誰のものなのか? いや、そもそもこの海や空は誰のものなのか? さあ、それは・・・、などと思ううちに、小さき者の思索は青島の波の音にかき消されてゆく。

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