日めくり詩歌 俳句 高山れおな (2011/12/08)

四十九番 きれはし

海鼠とふ夜の断片を嚙みにけり 亀田憲壱

右勝

ハーレムや秋蝶何の切れ端ぞ 中村堯子

左句をピックアップしてふと思った。自分は海鼠を食べたことがあるのであろうか。愕然としたことには、食べた記憶がない、のである。四十数年ほぼ好き嫌いなく食べてきて、海鼠を食したことがないはずはないので、きっと食べたに違いないが、しかし記憶はない。記憶がないから俳句が読めないということにはならないにせよ、なんとなく呆然としてしまった。「夜の断片」という比喩には一抹のポエジーを感じるものの、際立ってすぐれているわけではなく、理に墜ちている面もある。そこで是非とも「嚙みにけり」の効果を計りたいところなのだが、かかる次第で読解に確信を欠く。「夜の断片」という着想の、力ないし力不足だけが、曖昧に我が眼前にあるといった風なのだ。

右句が載る句集には他にも、

初蝶来ランプひと拭きふた拭きめ
蝶に紋外反母趾に尖る骨
蝶々の吸ひのこす蜜それも炎ゆ
冬蝶のあるく瓦礫野かたんことん
粉抓むときの軋みや蝶つまみ
秋蝶来何故か音せぬときばかり
二人出て扉のしまる蝶の昼

など、結構な数の蝶の句があって、しかもどの句もどこかしら屈折を湛えて素通りし難い。まず、五句目は小麦粉や片栗粉などの粉末を指先で抓んだ際と同じ感触を、蝶をつまんで覚えたというのであろうが、「軋み」の語が点睛となって、一句がにわかに生動している。三句目は、目には見えない「吸ひのこす蜜」を心に見て、春の生命そのものがゆらぎ立つかのような、濃密な春景色を描き出した。ちょっとルドンの絵みたいではなかろうか。最も驚いたのは四句目で、作句時期からはありえないが、まさに今冬の東北地方の風景の幻視を思わせる。冬蝶が歩いたことで瓦礫が「かたんことん」と鳴ったわけではなく、瓦礫は例えば風で鳴ったのである。しかし、言葉の上ではあたかも、冬蝶が歩いたことで瓦礫が鳴ったようにも読めてしまう。そこに一種の神秘的な亀裂が生まれている。俳句的な余りに俳句的な、静謐なる黙示録。

と、廻り道をして右句。「ハーレムや」の上五のぶっとびぶりにまずはあきれる。もちろん、イスタンブールに旅行してトプカプ宮殿の女部屋を見学した際の情景というなら話は別だが、句集の並びを見る限りその可能性はなさそうだ。だから句の言葉を素直にたどれば、「秋蝶」を見て、それが何かの「切れ端」のようだと思い、ついでなぜか「ハーレムや」という感慨がやってきた、そのようにしか読めない。そしてそれで当方はすでにかなり納得しているのだ。一句を貫いているものがあるとすれば、華やかさと裏腹になった寄る辺なさの感覚ということになろうか。

気ままに暴れているようで、ある確かな表現を成立させている右句に対して、左句は既述のような弱点を持つ。加えて、「○○という○○を食べる」の後の方の○○を何らかの比喩とする句形が、そもそも鮮度を欠いているだろう。ありがち、ということだ。右勝。

季語 左=海鼠(冬)/右=秋の蝶(秋)

作者紹介

  • 亀田憲壱(かめだ・けんいち)

一九五五年生まれ。「銀化」所属。掲句は、第一句集『果肉』(二〇〇六年 富士見書房)所収。

  • 中村堯子(なかむら・たかこ)

一九四五年生まれ。「畦」を経て「銀化」所属。掲句は、第三句集『ショートノウズ・ガー』(二〇一一年 角川書店)所収。

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