日めくり詩歌 短歌 高木佳子 (2012/02/07) « 詩客 SHIKAKU – 詩歌梁山泊 ~ 三詩型交流企画 公式サイト

日めくり詩歌 短歌 高木佳子 (2012/02/07)

屈まりてガム剥がしゐるときのまをやさしき脚のあまた行き交ふ   高島裕

『旧制度(アンシャン・レジーム)』(ながらみ書房・1999年)より。略歴を参照すると、歌集出版の前年にビル清掃会社に就職をしたとあるから、これはその労働を詠ったものであろう。紆余曲折を経て、高島は故郷に腰を据え、『文机』を発行し続けている。もちろん、この『旧制度』のあとに歌集は出されたけれども、高島の鬱屈した生の姿が最も濃密に映し出されているのはこの『旧制度』のようにも思う。

この歌はもう何度も取り上げられているけれど、もう一度みていこう。屈んでいる自分の前を人々が颯爽と往来するのは非常に屈辱的だ。うなだれて、跪くような低い視点から、作者は行き交う人たちの脚を見ている。ただの脚ではない。「やさしき」とあるから筋肉の付いていない、肉体労働ではない人たちのふくらはぎなり、脚なり、であろう。 つまり、ここに描写されているのは単なる自らの労働の場面ではなく、人と人の間にある、自分と他者との間にある、見えない格差である。やさしき脚をもっている人たちが行き交っているとき、自らは屈まってガムをとる作業をしている。職業に貴賎はないはずなのに、この労働がとらせる姿勢はひざまづかせる姿勢であり、他者が吐き捨てたものを処理する行為なのである。

歌人・喜多昭夫の発行する歌誌『つばさ』の2011年11月号では、高島裕の特集が組まれている。自選100首、自筆年譜、大辻隆弘氏らによる高島論、最新作が展開されていて読み応えがある。これほど纏まった高島論が一挙に俯瞰できるのは初めてではないだろうか。

歌がなくても生きてゆける人は、歌をやめてほしい。
あなたのことだ。(中略)
歌わなければ生きてゆけないということは、心がいつも無所有であるということだ。それはつまり、歌わなくても生きてゆけるようになったとき、歌をやめるのに躊躇する理由を持たぬ、ということだ。
私はいつでも歌をやめるだろう。あなたとは違うのだ。

「あなたとは違う」と題された、特集中の高島の言葉。この言葉が高島裕の文学への今の全てを端的に表しているように思う。

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