日めくり詩歌 自由詩 渡辺玄英(2012/02/27)

いつかまた僕は   犬塚 堯

いつかまた僕は同じ刃で人を刺すだろう
何千年か前の冬
鼻の短い男ののどをつかんでそうしたように
(いまも群衆の中に彼に似た男を見て驚くのだ)
二人のもつれ合う影があれ以来
地球の回りを回っている
いつかまた雪の降る日
地上に同じ影を落としはしないか
 
いつか たとえば何千年かあとに
窓辺に緑衣の男が現われる
彼がもし僕の名で呼ばれるとしたら
このようにきっと愛するだろう
同じ声で 同じく吃りながら――
ここにいま鸚鵡がいるから
そこにも一羽いるだろう
山茶花の間に古い風が吹き
女は少し顎を上げるだろう
すると彼はなぜとも知らず
女をふと何千年か前の名で呼ぶだろう

犬塚は特異な詩人だと思う。ひとつには、抜群の実力と実績の詩人ながら、戦後詩の主要なグループとはほとんど無関係なところに位置して、いわゆる詩壇の出自ではなかったということ。もうひとつには、戦後詩の歴史の中でも、彼ほど作品のスケールが大きい人物はきわめて稀であるということ。

それは代表作のひとつ「石油」などにも顕著で、初めの部分、「驚くのは/僕らの五体が石油になるということだ/何十万年もあとに/思念が油の中で揺れるというのだ」のように、悠久の時間の流れの中で、人が人であることすら無意味であるかのような時空に作品は広がっていく。戦後の「荒地」や「列島」の詩人たちにしても、50年代・60年代詩人たちにしても、犬塚堯のようなスケールの大きな世界観を描き続けた人を寡聞して知らない。「石油」はこの後、詩人の思念が、大自然の精霊のようにいくつもの人類の興亡の歴史を見つめ続ける展開になる。

さて、今回紹介する「いつかまた僕は」は、長大な時の流れを見つめつつ、人の輪廻転生が描かれている。内容はことさら解説するほど難解ではなく、人は転生して、いつか刺した男に別生で出会ったり、愛した女とふたたび愛しあうだろう、というものだ。ただ、重要なこととして、この詩を支配している〈罪の意識〉を指摘しておきたい。「二人のもつれ合う影があれ以来/地球の回りを回っている」とあるように、人を刺した痛みは繰り返し繰り返し「僕」におとずれ意識され続ける。愛も喜びも輪廻するだろうが、同時に罪の痛みも永遠に拭われることはない。もしかしたら、読者であるわたしたちも、ふと前世で人を刺した感触を思い出すことがあるかもしれないではないか。

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