日めくり詩歌 短歌 高木佳子 (2012/03/15)

ぬばたまの闇の深みの木々の間に寄り添う人の肌あたたかし   田中拓也

『雲鳥』(2011年、ながらみ書房)より。

『夏引』『直道』に続く第三歌集。本集では「我」と「他者」の関係性について深く掘り下げる歌が多く見られる。そのうち顕著なのは、自らの親しい血縁、父や曾祖父母へと自身のルーツを遡るような歌群であって、自身の存在を深く考察していく姿が印象的である。ここで表出されているのは、ただ人間の血縁という愛憎の部分だけではなく、自然のひとつとして、流れの中の生命のひとつとしての「我」をつねに認識していることである。

麻酔より覚めたる母の眼に映る我はいかなる姿の我か     「母の病室」
見上げたる空に伸びゆく飛行機雲 父子の会話長く続かず   「歌誌」
黒鳥の羽根をつくづく見るだけの父は嫌いだ 変若かえれ父  「ブランコ」
曾祖父母が歩み祖父母が歩み父母の歩みし野薊の花      「百年の雨」

この中で圧倒的に多く詠われるのは父である。肉薄する父、しかし手に届きそうでいてそうではない関係性というのが肉親である。どこまでも近く、どこまでも遠い。そうしたもどかしい感覚が巧みに詠われている。

最初に掲げた歌は「原初の言葉」の一連から。この連作は作者が「ダイアログ・イン・ザ・ダーク」という、視覚障がい者のサポートの元で真の暗闇を体験するイベントの体験に取材した歌群である。まったく手探りの暗闇の中、作者の感覚が徐々にとぎすまされていく様子が克明に詠われる。

人は声で繋がるものと気づきたり肩を寄せ合い声を掛け合う
木の匂い枯れ葉の匂い水の匂い 見えざる道を探り歩めり
声と言葉の差異思いつつ首筋にするりと入りしものに戦く

もやもやとして掴みがたかった肉親に比べて、自分の感覚とはなんと直接的であろうか。視覚を閉ざすことで他の感覚が立ってくる逆説を作者は平明に率直に詠う。この把握は、巻末に急遽挿入された、震災に遭遇した体験を詠った歌群「三・一一 臨時避難所」にも現れている。作者は教員であり、体育館で生徒と共に震災の日の夜を明かす。

闇の中より近づく気配感じおり午前一時の椅子に座りて
七十二名の命がじんと冷えてゆく体育館の暗闇の中

近づく気配を感じる動物的な感覚、暗闇になった避難所でちいさな命の塊でしかないちっぽけな人間たちの命。歌集はこの震災の歌をもって閉じられている。自然の中の命や様々な有り様を丁寧に見詰め続ける作者の歌は、「我」を含む人間という存在も、大きな「他者」としての自然の流れの中に含まれているものにすぎないということを改めて確認させてくれる。

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