日めくり詩歌 短歌 さいかち真 (2012/05/14)

井光ゐひか、井光、井光いづこぞわれはまた切歯扼腕たる夢見てし

林 和清『木に縁りて魚を求めよ』(一九九七年十月・邑書林刊)

どこかで一度でいいから、この歌集にはじめて触れた時のおどろきを書いてみたいと思っていた。「井光」というのは、「古事記」に出て来る民の一人だと気がついて読んでもいいし、それを知らなくて読んでみても、この歌の持っている言い知れぬ切迫感と焦慮の念のようなものは、読者に伝わるのではないだろうか。「切歯扼腕たる夢」というのは、作者は前川佐美雄―塚本邦雄という系譜に連なる人だから、その系統の歌人らしい匂いをまつわらせている語彙だが、「井光、井光、井光いづこぞ」という噴き出すような祈りのこめられた一、二句の発語は、紛れもない作者独自の青春の憂悶の言葉として、私の魂をつかんだのだった。初読の際には、「井光」が特定の固有名詞として感受されず、井戸の底より照り返す光が、ゆらゆらと反射して、幾度もきらめきを発しながら立ちのぼって来るような、幻惑されるイメージを持ったのだった。その感じは今も鮮明で、私はこの歌をみると、自分の中に立ち騒ぐ若い頃の悲しみと、青春の自愛の気分の残響を聞き取ることができるような気がする。

タイトルの「木に縁りて魚を求め」るというのは、冒頭の父への挽歌や相聞歌らしい作品を並べた一連の小題として出てくるのだが、現代の日本語で古代詩の形式によって詩を書こうとする事そのものを指す比喩であると言ってもいいし、また、作者のような自由詩も書き得る資質を持った人が、定型詩である短歌を選ぶということを暗示しているのではないかと私は思っている。たとえばこういう歌は、私が今言ったことの証拠とはならないか。

鴬のなみだの氷菓ソルベ 千年をいち夜のごとく愛し続けよ?

「古今集」の春の部の歌を下敷きにして、「ソルベ」と言ったのもしゃれているし、「愛し続けよ」のあとの疑問符は、恋人を愛し続ける、という相聞歌としての意味合いだけではなく、和歌(形式)を千年たっても愛し続けるのか?という問いかけを含んでもいるのである。この章は、古典の情景との対話とも言うべき、二つのゴシック体で組まれた連作を含んでおり、そうした一連を置いておいて、次のような歌がある。

ひたひたと鷺がつけくる春昼をいつよりかながき堤をゆけり

気掛かりな、少し不気味な感じのする歌である。むろん「ひたひたと鷺がつけくる春昼」は、作者の内側にうごめく思考や、無意識の姿が投影されたものとして読む。実際に鷺と「私」は同じ方向を歩いていたのかもしれないが、つけてくると言ったのは、妄念すれすれのところで現象を感受している、この瞬間の作者の心の構えの表出である。そうして、この歌の「春の堤」は、どこかで古典や韻文の文学史そのものの流れを暗示するものともなっている。たぶん、挽歌も相聞歌もひとつになって混沌としているこの章の構成の仕方は、写実主義的な歌を読み慣れた歌人たちには、読みにくかったかもしれない。一冊全体では、孤独な青年が、若い時期の健康な性欲をもてあましながら、奈良や京都の古跡を巡り歩いている姿が、彷彿とするのである。私はそれに共感したのでもあった。

そばにゐてしかも見えざるいちにんと御室の秋の黒書院訪ふ
宿木がねばねばと伸ぶ春おそくわれはわれを連れてもとほる
肉のうちに恋はじまるとわれをかすめ夾竹桃を嗅ぎまはる犬
乱婚といふ語をおもふ十二月のプールより身をぬきてそののち
三柱みはしらの鳥居を見たりその夜より夢の濁りの消えがたくあり

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