日めくり詩歌 短歌 吉岡太朗 (2012/06/15)

あさがおが朝を選んで咲くほどの出会いと思う肩並べつつ   吉川宏志『青蝉』

(承前)

 1
 私がホテルなどで数千円から一万円以上するコースを頼む時、いつも頭の片隅にはチェーン店の牛丼のような安価な食べ物の姿があります。
 確かに私の食べているディナーは、牛丼よりもおいしいような気がする。
 こんな上品で繊細な味わいは、郊外の箱のような建物では味わえるものではないだろう。
 けれどこの上品で繊細な味わいというのは、単に私の舌が味覚を研ぎすませているから、そういう風に感じるのではないだろうか。
 なぜ私は味覚を研ぎすませているか、それは値段が高いからである。
 値段が高いから、高級な食べ物だから、味わって食べねばならないから、舌に神経を集中させて食べる。
 そうすると普段は無視してしまうような微妙な味にも、舌が反応するから、おいしく感じる。
 もし普段食べているあの牛丼にも、今のこのディナーと同じ値段がついていれば、私はそれを「上品で繊細な味わい」と評してしまうのではないだろうか。
 もちろんこれは牛丼がその場にないから可能な想像であって、その場で○○屋の牛丼を口にする偶然に巡り会ったならば、「いくら値段が高くても、これが上品であるはずはない」と思うことでしょう。
 けれどそこに牛丼が現れることはないので、何となくそんな思いを拭うことができず、目の前のディナーの美味しさを十全に信じることができないのです。

 2
 美術館に行くとします。
 本や雑誌や映像メディアなどで見慣れているイラストレーションが、そこに展示されていたとしましょう。
 普段は私はそのイラストをことあるごとに目にしていて、それに特別反感もなければ、特別好きというわけでもない。つまりはまあ無関心なわけです。
 でも額縁にいれられ、立派に飾られているのを見ると、これは真剣に見なければという気がしてくる。
 そうやって改めて鑑賞してみると、ポピュラーなイラストだけのことはあります、いい絵なのです。感動するほどではないにせよ。
 けれど私はその絵のよさを信じられない。
 自分の目を研ぎすませたから、いい風に見えたのだという気がしてならないのです。目を研ぎすませたのも、いい風に見ないと入館料を払ったのがもったいなくなるからに過ぎない。だから、要するにこれは本当のよさではなく、目が絵に下駄を履かせたに過ぎない。これは、まがい物の「よさ」だ。
 そういう風に思わないことが、私にはできないようなのです。

 3
 能動性への違和。
 得るものは望んで得るものではなく、不意に与えられてしまうものでなければならない。
 望み、それに向かって行動することで、それを得るのは、自作自演でしかない。
 もちろん何に対してもそのような態度ではない(それではただのぐうたらですから)のですが、「作品」というものに対しては、おおむねそういう態度で接してしまうのです。
 だから短歌を評しつつ、これは歌が本来持つ「よさ」ではなく、私の評が作り出した「よさ」ではないかと思う時、その「よさ」を信じることができない。
 それでも歌会の場などでは発言しなければならないから、口にするのだけれど、語れば語るほど、語りは嘘になっていく。
 周りのひとたちはそういうことを考えないのだろうか。しかしそれを訊いてしまうと、私が語った評が嘘に満ちたものであることが露見してしまう。だから口を閉ざす。違和感を抱えながら。
 私の周りには「他者」ばかりがおりました。

 

 4
 『青蝉』の巻頭を飾る魅力的な歌だが、読み解こうとすると案外難しい。
 石川美南さんの評の書き出しです。「魅力的な歌だが」という部分はまだ受動的だが「読み解こうと」といきなり能動化する。
 私も読み解くことの悦びを、知らないわけではないのです。
 言葉を解釈し、解釈から言葉を引き出してくる。朝・昼・夕の三つしかない選択肢の中で、朝を選んだという、そのほんのちょっぴりの前向きさ加減が、今、二人をつないでいる。
 テクストを解釈し、解釈に基づいて言葉ひとつひとつのニュアンスを確定させて行くことで、そこから自然に言葉がぽんと生まれてくる。「ほんのちょっぴりの前向きさ加減」は、元のテクストには存在していなかった言葉です。潜在的にはそこに在ったかも知れない。けれど石川さんがそれについて語ったことで、はじめてそこに生まれた言葉です。
 それはしばしば薬を調合するときの指先の敏感さのようで、天秤に粉末をあとわずかに足すためにトントンと微かに人差し指で匙を打つ時の風景さえ浮かんでくる。これは川野さんの文章ですが、川野さんが歌をまなざさなければ存在し得なかった風景です。そのトンの加減に全神経を集中している薬剤師の後ろ姿が思われる。川野さんと歌が出会わない限り、そこには薬剤師の「や」の字もなかった。
 言葉が創造され、言葉が想像されることにより、世界が創造されたのだということで、批評はこの幾重ものかさなりでできた世界にまた一つの襞を創造する行為にほかならないのです。
 その素晴らしさを分からないわけではありません。
 けれど、それを十分に信じることができない。
 私が歌を語る時、そこから生じる創造を、創造することの快楽を味わいながらも、一方でその創造が欺瞞に満ちたものではないか、あるいは欺瞞ではないにせよ、空虚で薄っぺらなものではないかという気がしてしまい、語ることに対して、十全に肯定的であることができないのです。
 創造の快楽と違和の狭間に私はいるのです。 
(チェンジアッパーさんに続く) 

 

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