日めくり詩歌 短歌 高木佳子 (2012/7/6)

朱欒をひきよせ皮を割きてゆくおんなの指のああちからもつ   香川進

『甲虫村落』(1973年 角川書店)より。

香川進は、1910年(明治43年)香川県に生まれた。前田夕暮に師事し、口語自由律短歌を指向し、のちに定型に移る。1953年、(昭和28)短歌結社「地中海」を創刊した。香川は豪放磊落な人柄といわれるなどしていたが、一方でメモ魔でもあって、繊細で細かな面ももちあわせていたという。私たちが香川進と聞いて想起するのはこの歌であろう。

花もてる夏樹の上をああ「時」がじいんじいんと過ぎてゆくなり  歌集『氷原』

この歌は、太平洋戦争の敗戦を聞いた瞬間の、嘆息にも似た声が自然に口を衝いて出てきたものだという。

敗戦の告知によって、突然、止まっていたかのような「時」が流れ出すような、内省的な、だが確かな手応えを香川は感じたのである。一貫して生と死を見つめてきた香川の作風は、戦争の体験者であるというのもそうであろうが、幼い日に母と死別したことも大きな影を落としていると思われる。

掲出歌は「軒の下にて」の一連の冒頭に置かれる。「朱欒」は「ザンボア」と読む。朱欒は別名「文旦」とも呼ばれていて、比較的大きな柑橘類である。グレープフルーツのようにも見えるが、果皮は手で剥ける。果肉との皮離れがよく、大きく割くことができ、果肉を取り出して食べる。

香川はある女がその朱欒を自らの手にとり、皮を剥く一連の動作を見ている。細い指が果皮を捉え、食い込み、割くまでを凝視している。その凝視は、おんなの手元ではなく、「おんなの指」にまで凝縮される。そして「ああちからもつ」という結句に決着する。

「ああ」という詠嘆は、朱欒の皮を割いていく「おんなの指」が「ちからもつ」こと自体についてである。球体のみずみずしい果実を細い指がしっかりと捉え、割いていくという情景に、香川は女性の持つ根源的な生命力のようなものを感じたのであろう。

この「軒の下にて」の一連は

この背を手ごめに抱きし人あるかと妬めば夏まだはやきひぐらし
子を持たぬひとの住いに影ありて軒のしたに置かれて錆びし三輪車
帰りきて炊ぐひとりのおこないをうけとめてくらきに俎のあり
軒に乾す足袋のこはぜの真鍮がもてるをあらわに午後の日かげる

と続く。生活感がある家々の様子、一瞬の嫉妬や朱欒を剥く女の手元、乾してある足袋の細部……情景の一部分ずつを焦点化してゆくことで、香川はある女性像を、ある女性の全体を描き出すことに成功している。

そこに描き出される女性はなまめかしく、どこか影があり、つかみ所がない。この女性が妻なのか、別の女性なのかは、ここでは読み取れないが、それは幼い日に死別した母の姿とも重なる。慈愛に満ち、だが犯しがたい、生命を生み、育む生命体としての女性。そのように深い根源的な女性像を香川はいつも心の内にもっていたのかも知れない。

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