日めくり詩歌 短歌 吉岡太朗 (2012/08/06)

帰るときかなり明るくなっているけやき並木をふたたび歩く

土岐友浩「For F」 (詩客 作品 2012年7月20日号)

私はひげが濃いので、毎日剃らなければならない。勤め先の社長も毎朝剃っているらしい。主任は全く生えない体質である。

こんな冗談を言い合ったことがある。私や社長は毎日5分かけてひげを剃る。一月だと5×30で150分間剃っている計算になる。2時間半というわけだ。一年だと30時間である。つまり365日の内の丸一日はひたすら髭を剃っていることになる。剃らなくていい主任はその間遊んでいられるということになる。

まあ実際のところは、主任はその分以上に歯磨きや眉剃りを念入りにしていたりするわけだが。

歯磨きといえば、朝起きてだるくて、とりあえずブラシに歯磨き粉をのっけて口に突っ込むのだが、こすりはじめた瞬間、適度な力が入り、動作が安定する。歯磨きの記憶が呼び出され、それとともに意識がはっきりするのだ。

歯磨きを続けていると、時々思うのが、昨日もおとといもずっと昔も歯磨きをしてきたのだな、ということである。寒かったあの頃も、その前の夏も、まだ二十歳だった頃も。その前も。今日の歯磨きが今日までのすべての歯磨きへと一直線に連なっていることを、雪が積もるように時間が堆積していくことを思う。そんなことを思いながら、昔はすぐにオエッとなっていたことを回想する。

暮らしとは反復である。生活するというのは、洗濯物を干すことではなく、洗濯物を干し続けることなのだ。

家も住み始めた途端に自分のものになるのではなく、住みながら記憶を蓄積しながら、少しずつそこを自分のからだの延長にしていく。昨年の12月に引っ越したのだが、最初は旅館にでも泊まっているような気分だった。荷物を運びこむ前は、空き家に不法侵入しているような気分でさえあった(敷布団がないので、押し入れで寝たこともある)。

周りの道にもかなり通じた。繁華街へと至る通りにはたくさんの料理屋や居酒屋やバーの看板が立ち並んでいるのだが、今はもう馴染みの顔である。けれど今でもこんなところにこんな店があったのだと発見することもあり、そういう時はいつもの景色が少し違って見えて楽しい。

最小の反復の一つとして、往復がある。

人は暮らしの中で、どこかへ出かけることをする。

会社や行きつけのスーパーのように決まった場所であることもあれば、行き方を調べて新しい場所へ行くこともある。全く無計画な散歩もする。

何にせよ、行けば帰らねばならないというのは当然のことだ。その時に同じ道を通るのだとしたら、その道を通るという経験は反復される。

人は歩きながら目印を決めていることがある。ああもうこの店のところまできた。あの川の流れているところまではもう少しだろうか。

よく通る道の場合、そうやって目印を何度も目撃しながら、目印と親しくなっていく。

同時に行きと帰りで、道の印象が違っていることもある。たとえば昼間歩いた道が夜だとまるで違っていたり、行きはあんなにも遠く感じられたものなのに、帰りはすぐに目印が現れたりと。

往復は反復と差異のよろこびを秘めている。

歌の作中主体も、けやきの様子の変化に時間の流れというものを感じたのだろうか。ここはこういう場所だったのか、とさざなみのように静かな驚きを持って景をまなざしたのだろうか。

ともあれ表面上は何事もないままに、彼は並木を歩いていく。

けれど三度そこを通るかも知れない。三度通れば四度通ることになるだろう。

そうやって景との交流を深めていくにつれ、けして口には出さないかも知れないが、その並木道は彼にとって少しだけ特別な場所となる。特別といっても裏に何の意味も張り付いていない特別さなのだが。

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