日めくり詩歌  自由詩  岡野絵里子(2012/08/16)

空をはじめる   松岡政則

ことばの息
ことばの仕草
その震えだけをしんじている
艸でいくことにする
土地はがんらい択ばない
姿勢のよいひとにはさからわない
 
弱いから歩くのか
父をよく知らないからか
川原は省けない
これも血だからしかたない
艸でいくことにする
帰りなど一度もなかったではないか
 
なんで行間が
よごれてしまうのだろう
祖法にしたがって
そらをはじめる
艸でいくことにする
念仏はわたしではなくなるのがよい
 
犬が低くうなっている
あんたらにも合わす顔がない
三月の郵便受け
艸でいくことにする
耻かしいはたいせつだ
だれにいうのでもないのだけれど

「口福台灣食堂紀行」   思潮社    2012年

6月30日発行の詩集「口福台灣食堂紀行」より。「峠越え専門、という男のはなし」はよくわからないのに、うっすらとおかしみを感じさせる詩。峠で老婆と石仏を見たと男が話す。ぼた餅を供え、「二度と生まれてこんように」拝んでいたというのである。よほど深い絶望がないと、人はそうは思わないものだが、この老婆は不幸に打ちひしがれているようで、妙に強く押してくる。男の話を聞きながら、詩人は「なぜとなく、 / わたしの詩にわるい影響をあたえるとおもう。」意外性にびっくりしつつ、おかしみも感じる。詩人が商売道具の感受性を守るのは当然なのだが、大真面目なのか、微笑んでいるのか、帽子にかくれて表情がよく見えない。

「空をはじめる」にも、おかしみとかなしみがある。晴れた空の下、自分自身を忘れるほど集中して念仏を唱えながら、今日一日の中を行く。空が端から始まっている。自分が進めば進むだけ、空は広がっていくのだ。

その時、自分は艸であるという。方針として決めたのである。詩人はかつて「草の人」であったが、艸に進化していくのだろうか。「艸でいく」なんて軽やかで素敵である。「ことばの息 / ことばの仕草 / その震えだけをしんじている」ところがとても草っぽい。でも行間というものがある。詩でいえば余白、恋愛でいえば胸と胸のあいだの距離。そこが汚れるのを恐れている。人間の業を身体から離すには念仏も必要になるということなのかもしれない。

空は明るく、草は青々としている。そこをかなしみが行く。最後にさりげなく、耻かしいという感覚が大切だとも言う。だが、松岡氏の世界は日常から歩き出していて、日常と異質である。独特の言葉遣いが見えない帽子の奥から現れて、人間の弱さとかつまらなさに触っていく。その触り方が思いもよらない。

混んだ食堂の魯肉飯、朝の熱い豆乳と揚げパン、豚足の煮込み、マコモタケスープにアヒルの水掻き、白酒、黒糖饅頭・・台灣には、懐の深い光があった。美味しいもののある街では、詩人も少しだけ人間界に馴染んでくれる。

 

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