日めくり詩歌 短歌 高木佳子(2012/9/20)

ねぎの香と新そばの香につつましき豊かさありてしんみりと秋   馬場あき子

『鶴かへらず』(2011年・角川書店)より。

精力的に活動を続ける馬場あき子の第二十三歌集。平成二十一年頃までの作品を収めた歌集で、現在までの三年間の作品は未収録であるということだから、なお多くの作品が単行化されるのを待っていることになる。あらためて馬場氏の活動の深さを思う。

掲出歌は食物に関連した歌。葱と秋の新そばの香りに慎ましい豊かさを、だが本人にはしんみりとも感じるというのである。この歌の読みはもう他には揺らぎようがない、率直な歌だ。参照してゆくと、意外とこの歌集には食物に関わる歌が多くあることに気づかされる。

道ばたにひとり坐つてパンを食べるヘンとも思はぬ今日のヘン

ひとり居の茶漬にそへしらつきようを噛む音われと聞く夜の深さ

茶の花はまだ咲かざるか遠来の客待つごとし茶碗蒸し蒸す

豆腐料理の季節来て今夜豆腐なり八つ手の花もぱらりと咲いて

多く食べ物の歌。一見ユーモラスな歌に見えて、背後には作者の孤独が見え隠れしている。一首目は道ばたにひとり坐ってパンを食べるという歌。「ヘンと思はぬ」とあるから、十分にその挙動は変わっているとどこかで気付きながら、もう変だとも思わないのだ、と打ち消しているところに明るい開き直りと乾いた孤独がある。変だと思わないのは「他」を感じないのである。以前は人の目が気になっていたが、今はそうではない。そうした自分を客観的に見つめて、さらにそんな自分を「今日のヘン」という。
二首目も、お茶漬けに添えられたらっきょうを噛むときの音を、作者は「われと」聞くのであり、それは同時に「夜の深さ」でもあるという。
ここにも夜半、食卓にひとりいるらしい作者の姿が浮かんできて、しめったさびしさを感じる。
三首目、四首目は誰かのために料理を作っているのだろうか。茶碗蒸しにしろ、豆腐料理にしろ、柔らかいイメージはそのまま作者の現在の心理とも重なるようなきがしてくる。少し手がかかる料理をつくるとき、ひと日の自身の生もまた、パンやお茶漬けで済ますよりも少し丁寧に生きているのだとも思われる。

こうしてみてくると、掲出歌にもさびしさが際だっていることに気がつくであろう。初秋の収穫の象徴である新そばの香り、葱の香りにつつましやかな豊かさを感じていながら、作者は「しんみりと秋」と結句でいうのである。「しんみりと」がやや慣用的ではあるけれど、秋の豊かさよりもなお、寂しさが募るような、小さな孤独感が見えてくる。

馬場あき子氏の周りにはいつも人の輪ができていて、遠くから見ると何事も明るく強く、はっきりとしていて強い女性のイメージがある。だが、独りとなったときのさびしさというのも一番よく知っているのも本人なのかもしれない。

タグ: , , , ,

      

Leave a Reply



© 2009 詩客 SHIKAKU – 詩歌梁山泊 ~ 三詩型交流企画 公式サイト. All Rights Reserved.

This blog is powered by Wordpress