日めくり詩歌 短歌 吉岡太朗(2012/09/25)

リクナビをマンガ喫茶で見ていたらさらさらと降り出す夜の雨

――永井祐「1万円」『日本の中でたのしく暮らす』

まずAさんが登場して発言する。

Aさん: まず僕は「リクナビ」と「マンガ喫茶」っていう単語に注目しました。たとえば「リクナビ」から連想するのは、再就職かな。別に新卒の就職     でもいいんだけど、まあ仕事探してる感じ。仕事探すっていうのは転機なわけで、現状から何かが始まろうとしているの。
    で、その現状ってのは不安定で、たとえば「マンガ喫茶」からは、ネットカフェ難民とか、そういう言葉を連想するし。そうでもなくても「喫       茶」っていう時点で家でも勤め先でもないいわゆる第三の場所なわけだし、「マンガ喫茶」って時間制だよね。時間制限付きの場所って考え    てもいい。モラトリアム。って重ねすぎかな?
    それで「雨」っていうのは兆しかな。「リクナビ」を開くっていう小さなアクションを起こしたことで、今度は世界から返ってくる反応みたいな      感じ。建物の中にいて、雨がその建物を叩いてるってことだから、「マンガ喫茶」っていうのは言ってしまえば、「自分の殻」なのかもね。

次にBさんが発言する。

Bさん: 私は注意の移り変わりという視点で読みました。視覚的なもの、近くにあるものから、聴覚的なもの、遠くにあるものへの。
     「見ていたらさらさらと降り出す」っていうのはすごく間延びしてるんですが、この間延びがなんとなく移行していったみたいな感じを出して     いて、それが自然ですごくいいです。
     (歌集の付箋の張ってあるページを開いて、)
      さて義務をはたさなきゃコーヒーを買いさて義務をはたさなきゃコーヒーを飲んだら「ホットコーヒー」
     のような歌があるように、永井さんって自分の意識を追いかけて、その移り変わりを記述しようとしてるところがあると思うんですが、その      一例だと思います。
     「コーヒー」の歌の方はいかにも場面を作っているという感じで、説明的だし、あんまり面白いと思わなかったんですが、こっちの「リクナ      ビ」の歌の方はすごく好きです。
      それから、
      お弁当屋さんのクリスマスセール 携帯で時間をたしかめた「ぼくの人生はおもしろい」
      こういう歌も、上と下で散文的な関係は全くなくて、でもセールっていうのは期間限定のものだから、時間っていうところでは何か関係し     てるかも知れなくて、でもそれをつなげるストーリーを想像するよりも、何となくそういう風に注意が動いたんだな、って受け取る方が面白     いです。自分のからだの向こうにあるものから、時間っていう概念的なものを媒介にして、手元にあるものに視線が移って、その時に意識     のモードも切り替わるっていうか。

少し考え込んでいる様子のCさんに意見を求めてみる。

Cさん: うーん、Bさんと結構近いんだけど、時間っていうか、時間経過について考えたかな。
      短歌って、私そんなにたくさん読んでるわけじゃないから分かんないけど、大抵は静止画的に書くと思うの。たとえば体言止めを使うの      は、そこで世界を切り取って一枚の絵にするためだったりして、「夜の雨」っていうのはそういう効果をもたらしてるんだけど、そういうことし     てる一方で、その手前に時間が流れてるっていうのか。
      Bさんが間延びしてるって言ったけど、「見ていたらさらさらと降り出す」があることで歌が一個の絵にならず、二枚になっちゃうっていう      か。力がそこで逃げてく感じ。二重底感覚って言い直してもいいんだけど。
      でもそれは必ずしも悪いことじゃなくって(と歌集をぱらぱらとめくる)、
      月を見つけて月いいよねと君が言う  ぼくはこっちだからじゃあまたね「ぼくの人生はおもしろい」
      この歌だとわざと二字空けされてるけど、これは時間の経過だと思うの。「間」って言ってもいいかな。会話の場面から、「間」が持たなく     て別れ場面に移行するんだけど、永井さんが書きたいのは、上でも下でもなくてそれをつなぐ間――つまり時間経過だと思うわけ。元の      歌だと「見ていたらさらさらと降り出す」なのかな、それが。
      私って心配性な方で、旦那の帰りが遅かったりすると、ひょっとして交通事故で死んだんじゃないかとか、じゃあ葬式どうするの、そのあ     との暮らしは? なんていう風に勝手に未来を作っちゃったりするんだけど、そのあとしばらくして旦那がごそっと鍵開けて帰ってくると、      そういう嫌な妄想は全部吹っ飛んで、料理あっためなおさなきゃとか、お風呂沸かし直さなきゃみたいな現実的なところに意識が戻っちゃ     うの。そうしたらちょっと不思議で、妄想してた時は料理とかお風呂とかよりずっと先の未来に目線が行ってたんだけど、あの未来は何だ     ったんだー、って。
      人の意識っていうのは安定したい方に行くっていうのか、たとえば知りたいとか、把握したいとか、どうなるか分かりたいとか、だからこの     先はこうでみたいに妄想して、その妄想で不安を埋めることによって、あたかもそれが本当みたいに思いこんじゃうけど、妄想はもろいも      んで時間によって崩れるわけ。あたかも永遠だと思っていたものが一瞬で壊れて、今までの未来は未来じゃなくなる。世界の皮が一枚め     くれるみたいで、そこから新しい世界がやってくる。そういうのの繰り返しだと思うわけ、なんていうのか――生きてるっていうのは。
      歌のことで言うと、「リクナビ」「マンガ喫茶」の部分と「夜の雨」の部分で絵が二枚になってるってこと言ったけど、そういうことです。一枚     の絵はそれ自身が永遠を主張するんだけど、その永遠はたった一瞬で終わって、次の絵に移る。次の絵は次の絵で、これもまた永遠を     主張するんだけど、これもすぐ終わる。永井さんの場合、いつ崩れてもいいように、わざとゆるい口語で絵を描いてるようなところもあるか     も知れない。

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