日めくり詩歌 俳句 関悦史(2012/10/17)

我々はマトリョーシカぞ秋気満つ   野口る理

人形を割ると中から同型の小さな人形が次々に出てくるマトリョーシカ。「我々は」と正面切って名乗りを上げているので、中身は全部出ており、それがみなこちらを向いている図が浮かぶ。

カラフルで明快なデザインの、同じ顔の人形たちが集まって人間と真っ向から対峙していることとなり、この物言いの大仰さが可笑しい。

「深淵をのぞく時、深淵もまたこちらをのぞいているのだ」という。では、マトリョーシカの集団と見つめあっている者はどうなるのか。

ニーチェのこの台詞の前には「怪物と戦う者は、その過程で自分自身も怪物になることのないように気をつけなくてはならない」という言葉が置かれている。

マトリョーシカと見つめあい、「我々は」とその名乗りを聴きとれるまでに通じあってしまった主体は、まさにマトリョーシカと同列になっているといえるだろう。

そこから発見された内奥が「秋気満つ」である。
秋気は外部に漠然と遍満しているのではなく、人形たちの空洞を満たしている。カラフルなマトリョーシカたちの中にあるのは、寂しさと澄明感なのだ。

つまりここで主体は、自分のなかに満ちている「秋気」をも同時に見出したことになる。

だがその寂しさも澄明感も、内面を掘り下げるという、自分探しじみた鈍重な身振りとはおよそ無縁であり、外形だけしかないにも関わらず高らかに名乗りを上げる数体の人形という、おかしな物件との出会いによって見出されているところが肝要である。

この「秋気」とマトリョーシカは、前者の寂しさを後者の可愛くも奇妙な昂ぶりが慰撫するといった関係にはなっていない。そうではなく、自己とは並べられたマトリョーシカのようにいくつもの意識や関係が併存しているのが当たり前なのだという乾いた認識(あるいはマルチタスク中のパソコンの各ウィンドウのようにといった方がわかりやすいだろうか)があり、「秋気」はそれらを貫く気分として自己たちの連続性を担保しつつ外界へと開けているだけなのだ。マトリョーシカはどこまで開けても空虚であり、自意識の泥沼や、単なる気鬱とは関わらない。

だから「怪物」ならぬマトリョーシカになってしまった主体も、その奇妙さ、カラフルさと心弾ませあいつつも、そこから軽やかに身を引き離すことができるのである。

ウェブマガジン「spica」2012年10月1日の「教へよ」7句から。

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