君といふ魚住まはせいつまでも僕はゆるやかな川でありたい 喜多昭夫
『銀桃』(2000年・雁書館)より。
喜多昭夫の第二歌集にあたる、この『銀桃』は、多く青春性を詠った歌が収められている。これまで喜多は、ときに口語を多く取り入れながら、その時代時代の瞬間がもつ「今」を切り取ってきた。それゆえ、ときにその「今」は鋭どいものとなって、過剰に読めるときもあったように思うけれど、それは若さゆえのことではなかったかとも思う。
『銀桃』では第一歌集『青夕焼』から11年、そうした青春性を眩しがる様子は、ある意味でそれがすでに終わったことを意味する。青春のただ中にいるうちは、いまが青春なのだ、などとは感じないものだからだ。
掲出歌は、まだ結婚していなかった婚約者の女性との様々を描いた「古典の花」一連から引いた。
初めての身近な他者。この歌はその人の前で自分は「ゆるやかな川でありたい」と願望をいうのである。しかし、この歌をよく見てみると、「君といふ魚住まはせ」とあって、使役形が使われている。両者の関係性は、包含する側が自己であり、包含される側が他者である。するとここでは他者としての女性を包含する存在でありながら、「住まわせる」という、ある意味で強い関係性が見え隠れするのである。
他の歌も見てみよう。
氷河期の葦べきべきと手折りつつ妻といふ名の一玩具欲る
まだ水に濡るることなき水中花濃きくれなゐの五弁を畳む
反町に抱かれてみればわかるからやつぱり俺の方がいいから
浴衣着てつめたい梨を剥きゐたり(不器用なんだ)妻となるひと
ワイパーに君への手紙挟みたり明日になれば逢へるのだけど
「妻といふ名の一玩具」「水に濡るることなき水中花」読むと一瞬どきりとさせられるけれど、これはこの人の特有の照れ隠しのような歌い方なのだろう。ときに自信過剰にもみえるパフォーマンスは、作者は作者の表し方で、まもなく迎える「妻」の存在を喜び、心待ちにしていることが分かる。それらの喜びが歌にそれとなく漂うときに、読者もまた幸せな気持ちになる。青春の果てに、新たに共に歩く人を見つけて、作者はこれ以降現在まで、さらに深く広くものを見つめる歌を生み出していっている。