日めくり詩歌 自由詩 渡辺玄英 (2012/11/29)

漢字喜遊曲   吉野弘

母は 
舟の一族だろうか。 
こころもち傾いているのは 
どんな荷物を 
積みすぎているせいか。 
 
幸いの中の人知れぬ辛さ 
そして時に 
辛さを忘れている幸い。 
何が満たされて幸いになり 
何が足らなくて辛いのか。 
 
舞という字は 
無に似ている。 
舞の織りなすくさぐさの仮象 
刻々 無のなかに流れ去り 
しかし 幻を置いてゆく。 
 
――かさねて 
舞という字は 
無に似ている。 
舞の姿の多様な変幻 
その内側に保たれる軽やかな無心 
舞と同じ動きの。 
 
器の中の 
哭。 
割れる器の嘆声か 
人という字の器のもろさを 
哭く声か。

詩集『北入曽』(1977)より

 吉野弘の詩は、強い人間愛が根底にある。作品には、しばしば人間の良心とそれに拮抗する人間の弱さを同時に抱きしめるような眼差しが見られる。それを平易な言葉で語るのが彼の作風だ。

さらに、もうひとつの特徴として、詩の切っ掛けの巧みさを挙げたい。有名な詩「夕焼け」は、乗り合わせた電車内のちょっとした出来事から、人の良心の遣る瀬無さ溢れる、切ない展開になるし、詩「I was born」では、父と息子が境内で身重の女性と出会ったときの会話から、人が生まれてくる意味が問いかけられてくる。いずれも、わたしたちが日常の生活している同一地平での出来事が巧みに詩の基点となり、詩的な想像力を媒介にして、人間の抱え込む重たく深い問題にまで展開していくのだ。

例えば、この「漢字喜遊曲」。吉野作品の中では傑作と呼べないとは思うが、一度目にしたら忘れられないほど冒頭が素晴らしい。普段、わたしたちが使っている漢字の形に着想を得て、鮮やかに人間の業にまで踏み込んでいく。「母は/舟の一族だろうか。/こころもち傾いているのは/どんな荷物を/積みすぎているせいか。」という第一連。「積みすぎて」の「すぎて」が効いている。

いったい何を積みすぎているのだろうか。読者は切ない想像を拡げてしまう。人は生きる上で、さまざまなものを否応なく背負ってしまう。当然「母」も何かを背負うのだが、母と云うからには「子」の存在がここには暗示されている、と読むべきだろう。「傾いて」しまうぼどの重みは、すべてではないにせよ、「子」への思いなのだと思う。

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