戦後俳句を読む (24 – 3)赤尾兜子の句【テーマ:場末、ならびに海辺】/仲寒蝉

愛する時獣皮のような苔の埴輪   『蛇』

この俳句を「場末、ならびに海辺」の句とするにはかなり無理がある。それを承知で敢えてここに論ずることにしたのには三つ理由がある。この句が現在読み進めている『蛇』の「坂」の章に収められていること、兜子自身自薦200句や現代俳句協会賞を受賞した一連にも入れていて自信作だったらしいこと、それに何よりこの句を読むと筆者には場末のしがないアパートでの愛欲の場面が思い浮かぶということ、がそれである。

以前この稿で触れた昭和34年2月「俳句」の特集「難解俳句とは何か」において、この句を3人の作家が取り上げている。飯田龍太は「俳句年鑑」から文字通り難解と思われる句を50句ほど抜き出した、と述べてこの句もそのうちの1句に挙げている。但しすぐ後に

全くこの表現の通りで、苔むした埴輪から獣皮を連想したというだけのことだ。「愛する時」が埴輪そのものか、或は常套手法である彼氏彼女式のものか、そこで一寸途迷わせたが格別の意味はない。難解らしく見えたのはそんな表現の蛇足にすべて原因する。

と書いていて、他の数句と共に「格別難解と称すべき程のものでないことが判る」と片付けている。

あとの2人は相馬遷子と浅井周策。「難解作品・私はこう見る」という欄があり、指定された7句に対して15人の作家が夫々論じているのだが、兜子の作ではこの句が挙げられているのだ。遷子は「一読、難かしいと思う。再読、三読すると、幾分かは分つたような気がして来る」と言った後、自分の解釈として

一句の意は「愛する時に埴輪の苔が獣皮のように感じられた。そしてその埴輪が強く印象された。」ということで、作者は「愛する」ことに原始に連なる悲しさや怖れを感じ、それを現(ママ)わそうとしたしたものと推察される。私とは全く異質の傾向だが、或程度面白いと思う。

と書く。また周策は

死物であるべき苔むした古代の埴輪が、撫でさすった時の感触から、あやしくも生命的な触覚を産み、そこから幾多の連想が開花して来る過程を作者は詠ったのである。(中略)作者ががつちりとその猥褻の本体を抱き、読者がおつかなびつくりでその本体を手さぐりしている姿がこの句のねらいであり、その限りにおいて中中成功した作品である。

と評価している。

二人に共通するのは「愛する」を精神的な愛ではなく、「肉体的なもの(遷子)」「行動としての愛撫(周策)」と捉えた点である。龍太が「常套手法である彼氏彼女式のもの」という分ったような分らないような言葉で片付けた「愛欲」のことを指すと二人共に看破している。

難解か難解でないかはこの場ではどちらでもよい。なかなか一筋縄でいかない作品であることだけは上記の3人の論じ振りを見ても分る。筆者には句の構造からして兜子の俳句の中では明解な部類だと思う。上五は二人が感じ取ったように愛慾の瞬間、それもしがない場末の猥雑なそれを表わす。中七以降は抱いた女の感触を「獣皮のような苔が蒸した埴輪のようだった」と言うのだろう。遷子も周策もまずは作者が埴輪を撫でさすった時の感触があり、そこから一句が発想されたと考えている。だが筆者は反対に先ず愛慾の場面こそがあったと考える。なぜ埴輪が連想されたかは非常に興味深いが、古代の大らかな女体賛美と無関係ではあるまい。個人的には縄文のビーナスのような土偶の方が相応しい気もする。司馬遼太郎や陳舜臣と知り合ってからの兜子は歴史の方面へ関心を向けることになるが、もともと中国文学を専攻していた事実からして古代への志向は潜在していたものであろう。

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