戦後俳句を読む (2 – 1)   ―「私の戦後感銘句3句(2)」―   稲垣きくのの句 / 土肥あき子

バレンタインデーか中年は傷だらけ

昭和38年(1963)第一句集を上梓した直後、「春燈」主宰久保田万太郎を亡くす。そのわずか3年後の昭和41年(1976)に出版された第二句集『冬濤』で俳人協会賞を受賞する。句風に大きく方向転換が見られるのは、万太郎の死が影響していることを感じさせる。

句集には昭和40年(1965)、まだアンカレッジ経由で世界旅行をしていた時代に、パリ、ローマ、サンフランシスコと賑やかな旅吟が混じる。

夏帯にたばさむものやパスポート
甃よし夏足袋のふみ応ヘ
ゴンドラの波きて匂ふ水も夏

と、それはまるで渡り鳥が係留地に点々と立ち寄っているような軽やかな詠みぶりである。

また、そののち恋人との死によって永遠の別れが訪れる。恋人を失ってのち、きくのは秘めたる愛を作品へと解放した。恋ほど軽くなく、情念ほど重くない、そして背徳の悲しみを背負ったきくのの愛は、完全な幕引きにならない限り、俳句にもエッセイにも個人を特定することができないよう配慮してきたものだった。

掲句は「ひとの死ー」と前書された連作に続くものである。バレンタインデーは、昭和7年(1932)モロゾフが日本に紹介したものの日本文化には定着せず、昭和31年(1956年)の不二家、昭和34年(1959)のメリーチョコレートのバレンタインキャンペーンによって周知されたといわれる。とはいえ、一般に定着するのは不二家がハートチョコレートを発売した昭和46年(1971)あたりからようやく市民権を得られたように思われる。掲句はそれ以前の昭和41年(1966)の作品である。世間ではバレンタインデーをどのように位置付けてよいのか、まだ手探りの時代である。

しかし、クリスチャンでもあり、前年ヨーロッパ各地を旅行してきたきくのにとって、それが愛の日であることはじゅうぶんに意図し、さらに誰もが聞きなれない言葉であればあるほどふさわしい斡旋だった。

「そうか、今日は愛の日か…」と恋人を失った日々のなかで思うきくのは、傷だらけになったわが身をつくづくと見回し、名誉でも災難でもない、ただひたすら自分でつけてきた傷にそっと触れている。

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