戦後俳句史を読む (22 – 2)- 稲垣きくのの句【テーマ:流転】赤坂時代(戦中編)/土肥あき子

新しき婢が気に入らず春の風邪

昭和16年(1941)の俳句手帳より2月24日、女主人もすっかり堂に入った暮らしぶりがうかがえる句である。きくのは「春蘭」昭和13年3月号のエッセイでも女中難を嘆いている。戦前の家庭では、家族が多いこともあり、住み込みの女中がいるのは特別ではないとはいえ、その多くは10代の地方から出てきた少女であることを思うと、茶の湯に通じ、都会暮らしの煤煙で足の裏がざらつくことをなにより嫌う潔癖なきくのを満足させるのは至難であったかと思われる。

句会に吟行にと熱心に続けていた「春蘭」は、昭和15年(1940)戦争のため6月号で廃刊し、10月には東京在住の岡田八千代などとともに、大場白水郎を選者に「縷紅」を創刊する。

「ホトトギス」虚子選を叶え、「縷紅」にも投句を続け、きくの調を勢力的に模索するなか、昭和16年(1941)1月から昭和17年(1942)4月までが記された俳句手帳には6月1日、大連へと旅立つとある。旅吟は機上から始まり、大連、特急アジア、奉天、北陵、ハルピンと、異国を詠みつくす勢いで手帳に書き記している。この旅行を終え、俳句手帳のきくの作品は数も質も高まりを見せる。

昭和17年(1942)には生涯のライバルとなる鈴木真砂女と初対面し、翌年には「縷紅」幹事として名を連ね、投句先には赤坂福吉町の住所が記された。

夏蝶のあるひは低く草の中 「縷紅」昭和17年8月号
羅やまたその癖の腕まくり    〃
額の花の上にも道のあるらしく  「縷紅」昭和18年8月号

俳句への情熱が年ごとに高まるきくのであるが、昭和19年(1944)、用紙の入手困難となり「縷紅」は休刊となる。

東京では昭和19年(1944)に学童疎開が始まり、日本の敗色も深まりつつあったが、福吉町の屋敷のなかできくのは割合のんきに構え、疎開についても鷹揚だった。しかし、昭和20年(1945)3月10日以降のある事件によって、疎開の覚悟を決めた。それは、隣の黒田邸の森から早朝夥しい数の鴉の群れが一斉に下町方面へと飛び立ち、夕方また一斉に戻ってくる光景を不思議に思っていたところ、大空襲に襲われた下町へ餌をあさりにいくと知り、その餌となっているもののおぞましさに居ても立ってもいられなくなったのだ。

4月にきくのは信州の小諸から6キロほど入った平原という浅間山麓の農村へ疎開する。農家の一隅にある離れを借りていたということだが、この間の俳句はどこを探しても出てこない。随筆集『古日傘』で一編だけ疎開時代の思い出を書いた文章があり、所用で隣村への一里あまりの道すがら、雑木紅葉が見事であったとあるから、いたって気楽な生活を送っていたかと思われる。

赤坂福吉町の家は昭和20年(1945)5月25日の東京大空襲であっけなく焼失した。

戦後俳句を読む(22 – 2) 目次

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相馬遷子を通して戦後俳句史を読む(5)

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