春雷や焼け残りたる土蔵に住み 『榧の実』
土蔵には「くら」のルビが付く。赤坂福吉町には、年譜上では昭和14年(1939)から昭和34年(1959)の20年間居住していることとなっているが、戦争中は疎開し、戦後は焼失した家屋を再建するまでの間、弟家族の暮らす鵠沼に身を寄せもし、気に入りの場所さえ安住を思うにまかせることはできなかった。体調を崩したきくのは半年余り築地の病院に入院するが、看護婦と一緒に銭湯へ行ったり、買い物や歌舞伎にも出かけられる心安い場所だった。再建中の家も、病院からたびたび赤坂へと見に通っていたようだ。
入院中のエッセイによると「焼跡へ小っぽけな家を建てた」とあるのは、きくの流の謙遜がいわせた言葉だが、のちに借家として貸し出したこの家を作家の瀬戸内寂聴が借りる前提で見に行った折りの記述が残されている。
「大きな石垣の積まれた見るからに豪壮な邸宅の構えで、私は高い石垣の前に立っただけで、怖れをなし、とても私の住める家ではないと思った。(中略)平屋の邸宅は見るからに上品な数寄屋造りだったが、雨戸が建て廻してあるせいか、陰気な感じがした」(『孤高の人』瀬戸内寂聴)
広大な敷地のなかに自宅と離れを建て、離れには満州から引き揚げてきた末弟一家を住まわせた。彼らが引越したのち、離れを母屋に移築したかたちで、ロシア文学者の湯浅芳子との同居がある。先に引いた『孤高の人』は、寂聴が書いた湯浅の評伝である。本書に登場するきくのは、湯浅から聞いた話しとして「女優だったが芸が下手」「男爵の囲われ者」「句集も二冊出たし、俳人協会賞ももらったのよ、でも、まあ、そこまでだった」と散々な書かれようだ。寂聴自身が実際に軽井沢できくのに会った印象も「曖昧な表情、身体のこなしに倦怠感が滲み、メランコリックな雰囲気」と決して好意的ではない。
水泳が得意で、颯爽としたスキー姿が写真に残されているきくのが、いつのまにか「曖昧でメランコリック」な女性へと入れ替わってしまった。誰の口にものぼっていたのだろう「囲われ者」という言葉が、きくのを徐々に人嫌いにさせていったのだろうか。
昭和32年(1957)には「さるひとの」の前書がある
でで虫やどこまでひとのへそまがり
昭和33年(1958)には「にくきひとの」の前書がある
言ひ捨ててぷいと出てゆくみぞれかな
そして、昭和34年(1959)には
ショールしかとこの思慕そだててはならず
愛に翻弄され、恋にときめく奔放なつぶやきにだけは、いつまでも溌剌と刺激的なきくのの横顔を見せ続ける。