戦後俳句を読む (4 – 1) ―「死」を読む―  稲垣きくのの句 / 土肥あき子

ひとの死や薔薇くづれむとして堪ふる

『冬濤』は昭和41年(1966)10月に上梓された。なかでもひときわ評判にのぼった章が最終章の「冬濤」である。掲句は「ひとの死ー」と前書された5句のなかの作品である。

きくのが生涯を貫いた愛は秘めたるものであったため、恋人の死を待って初めて作品となって明かされた。

きくのは財界のさる人物に世話になっていた。彼女に与えた屋敷は東京赤坂に800坪というから、その大物ぶりは想像できよう。しかし、相手に家庭があることで、きくのは一切をベールに覆ってきた。明治初期には妻以外の配偶を法的に認めていた時代があり、「世話をする、される」という関わりを、現代の関係に簡単に置き換えることはできないが、妻と同じような強い結びつきがありながら、決して妻の座につけない間柄が、どれほど不自然で悲しいものであったかは想像に難くない。

恋人が死の間際にいることを知っても、傍らにいることができなかった日々はまさに身を切る思いだったことだろう。恋人の死の寸前に詠まれた7句はかくも苦しく、救いがない。

まゆ玉にをんな捨身の恋としれ
逢ひし日のこの古暦捨てられず
たまゆらの恋か枯木に触れし雲か
永遠は誓へず冬木雲を抱く
出さざりし手紙ひそかに焼く焚火
忘れよと忘れよと磯千鳥啼くか
冬浜の足跡かへりみる未練

昭和41年1月8日、愛する人が亡くなった。掲句を含め、その5句には悲しみをたったひとりで堪えるきくのがいる。

先立たる唇きりきりと噛みて寒
残されて梅白き空あすもあるか
ひと亡しと思ふくらしの凍はじまる
ひと亡くて枯木影おくかのベンチ

恋人との逢瀬の予定を書き記していたであろう古暦を捨て切れずにいたきくのも、2月が終わる頃には永遠の訣別を覚悟する。

恋畢る二月の日記はたと閉ぢ

このとき、きくの60歳。こうしてきくのには隠すべく恋もなくなり、あとはひたすら長々と横たわる時間が残された。第3句集となる『冬濤以後』に所収された作品に2年後の昭和43年、

噴水涸れをんなの欠片そこに佇つ
噴水涸れ片身そがれてさへ死ねず

と、水を噴かぬ噴水を見ては、残されたわが身をはかなむ時代を経て、

死場所のなき身と思ふ花野きて

と、つぶやく。

さらに昭和51年、もっとも仲のよかった弟を亡くす。第4句集『花野』には

うつせみや残されて負ふひとの業
花野の日負ふさみしさは口にせず

と、凛と言い放ってきたきくのの口から、ついに

かなかなや生れ直して濃き血欲し

という言葉がこぼれた。濃き血とは、夫、子供、孫という平凡な血統であり、結婚や子供という家族を持つことが叶わなかったきくのの、詮無い夢であったのだろう。

自ら選んだ女優という職業、恋人との生活による自由と不自由。生涯を通じて好んで詠んだ牡丹を並べてみると、きくのの化身のように見えてくる。

40代『榧の実』に登場する牡丹は、華やかに身を持ち崩す。

落日のごとく崩れし牡丹かな

50代『冬濤』では絢爛たる輝きを放つ。

牡丹の百媚の妍をうたがはず

60代『冬濤以後』になると、牡丹もこれで楽じゃないのよ、という詠み方にしずかに変わり、

牡丹もをんなも玉のいのち張る
忽然とくづる牡丹であるために

きくのが残した最後の牡丹は「俳句研究」昭和56年5月号に掲載された75歳の作品である。

冬牡丹つひのしぐれに濡るるかな
寒牡丹五時の門限閉ざしけり

生の象徴、女の化身でもあった牡丹はついに、扉の向こうの花となった。

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