三橋敏雄の句【テーマ:『眞神』を誤読する】49.50.51/ 北川美美

49.水待ちの村のつぶては村に落ち

「つぶて(礫)」とは小石のこと。川のつぶてではなく、村のつぶてが村に落ちる。「水待ちの村」というだけで、水乞いをしている村が想像できる。「眞神」の村、誰もいなくなった村を想像する。「なしのつぶて」というように、投げても返ってこない石がそのまま村に落ちたということか。「水待ちの村」はかつて人の往来があり、仕事があり、家族が住み、嫁がきて、子が生まれて累代の繁栄がそこにあった。その「つぶて」を拾う人もなく、石が落ちる音が村に響くようだ。

「水待ち」が心の枯渇のように感じられる。夏のギラギラとした太陽が刺さるように照りつける村。再び、安部公房の『砂の女』の理科の教師が汗をぬぐっている映像が思い浮かぶ。村という組織。そこにかつていた人々。石が落ちる音が耳に残る。

木霊でしょうか、いいえだれでも・・・。

50.水赤き捨井を父を継ぎ絶やす

48.から一句置いて「父」の再登場である。

「水赤き捨井」を想定してみると、『眞神』の生れた昭和40年代の井戸であれば、鉄サビの赤と想像するのが容易いかもしれない。よって「捨井」となり、今は使われていない井戸として想像する。

句の後半、井戸と同様に父をも「継ぎ絶やす」とあるのが曲者である。「父」の存在がどういう存在なのかを考えさせられる。

父が継ぎ絶やされたならば、ここにいる僕(作者)は生まれてこなかった。父を継ぎ絶やし、絶滅できるのは、この僕(作者)かもしれない。生まれたルーツが井戸であるように感じられる。井戸(子宮)の水が「赤い」のは産道を流れる血なのか、この世に生まれていない僕(作者)=「水子」かもしれない。水子の自分が空に浮いているような存在のように思えてくる。

『眞神』に溺れそうに息ができなくなる。

しばらく『眞神』から離れ、再度この句に戻ってみても、やはり同じ読みになる。もう溺れているのだから死んでいるのも同じ。読んでいる自分も現世から離れているような気になる。ぐるぐると考える2012の秋である。

51.母を捨て犢鼻褌(たふさぎ)つよくやはらかき

父の次には母を捨てる。男が母を捨てるというのは、母以外の女性に目覚めたということを意味しているように思える。犢鼻褌(たふさぎ)、は「ふんどし」のことである。「ふんどしの紐を締め直す」などの比喩が思い浮かぶが、言葉がもっている周知された認識をうまく表現に使っている。それが「つよく」である。褌の何が強いのか実のところはわからない。しかし、気持ちが強くやわらかくなっていくことが伝わってくる。

アンニュイ(物憂い)なエロスが漂う。僕(作者)の息遣いが聞こえてくるようだ。この句を表現するならば、「唾を飲む」という動作が連想できる。その唾を吸う別の異性がいる気配すらある気がする。

犢鼻褌を「たふさぎ」と読ませるだけでアンダーウエアが雅な道具になる。

褌を締め直す時期にさしかかる中盤戦。眞神おそろし山険し。

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