戦後俳句を読む (24 – 3)三橋敏雄の句【テーマ:『眞神』を誤読する】46.47./北川美美

46. 油屋にむかしの油買ひにゆく

油を買いにゆく、それも「むかしの油」。
「むかし」とは「油屋」という名称が日常にあった江戸の頃を想像する。
江戸の風情を買にいく。
油のリフレインの中に人との繋がりが潜む。

江戸のむかし、油は行商人が売りに来た。

そう「油を売る」とは「油売ってんじゃねぇ。」と言われるように「無駄話をして時間を潰し、仕事を怠けること」の意味を持つ。熊さん八っつぁんの江戸情緒、江戸しぐさ(江戸の商人哲学)が伺える。「油売る」のその意味は、「風が吹けば桶屋が儲かる」ほどのかけ離れた因果関係はないが江戸の人の営みが見えてくる。

髪の油、行灯油は当時、粘性が高く、柄杓を使って桶から客の器に移すにも雫が途切れず時間がかかる。商人が、婦女を相手に長々と世間話をしながら、油を売っていたところからその意味に転じ「油を売る」といわれるようになった。

あえて「油屋」が示すことは、すなわち、ゆっくりとした時間を共有していることである。人と人とのコミュニケーションが成立していた時代。「ありがとウサギ/まほうのことばで/たのしい仲間が/ポポポポ~ン」という歌詞が繰り返し流れた2011年のあの時も時間の共有であるが、地球の大きさも時間の長さも当時と微妙な差があるとしても、流れる物事の早さが異なる。その感覚が「むかし」という言葉に因り引き出されているのではないか。それを敢て「買ひにゆく」ことにある。

読者を個々の郷愁に連れ出そうとする『眞神』の時空がそこにある。

47. みぎききのひだりてやすし人さらひ

利き手は何をするにもまず先に出る。
利き手の握力は強い。握力の弱い利き手ではない手で、危険と思うことができない。

人は誰でも弱い部分を持つ。「人さらひ」という鬼畜のような存在がふと見せる人間の穏やかさとしての「やすし」。そこに「人さらひ」の人となりがみえてくる。

左、右を示す表現は多義である。「人」を除く表記がひらがなであることも人のやさしさに対する配慮であると思える。

下五の「人さらひ」の取り合わせが読者の想像力を働かせる。けれど、ヒトサライが右利きであることなど、誘拐に遭遇して気が付くのだろうか。それは、ヒトサライを観察してそこにコミュニケーションが生まれなければ利き手などわからないだろう。「わたしを奪って・・・!!」と懇願されて仕方なくヒトサライになった男狼だろうか。それもひらがなが醸し出す淫靡なマジックだ。

人について考える、人の手について考える。その手には温度があるということだろう。

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