戦後俳句を読む(29 – 3)成田千空の句【テーマ:雨】/深谷義紀

雨の日は雨を力に大青田

掲出句を一読したとき、誰しも想起するのは次の作品だろう。

大粒の雨降る青田母の故郷くに   『地霊』

この句については既に第5回(テーマ:風土)で採り上げたため再度言及することはしないが、千空作品を語るとき必ず俎上に上がる、千空初期の代表作(昭和22年作)である。

一方、掲出句は、千空最後の句集となる「十方吟」に所収されたもの。二つの作品の成立期には半世紀以上の時の隔たりがあるが、作品のモチーフはほぼ同一である。千空が当初からそのことを意識して掲出句を創作したとは必ずしも言えないが、作品成立後にも気付かなかったということはありえないだろう。では千空自身はどんな思いで、この句を詠んだのだろうか。そこが興味深い。

二つの作品を比較すると、次のような違いが目に付く。

「大粒の」の句は、千空自身が語っているように、「生き生きとした大地の息吹を感じ、何の作為もないままに(中略)生まれ」た作品である(角川学芸出版 成田千空著「俳句は歓びの文学」より)。それに対し、掲出句には或る意味での“作為”が感じられる。作為という表現が適切でないなら、“作者の意思”とでも言うべきだろうか。

前者は、半ば無意識のうちに、青森空襲の惨劇に遭遇して蝕まれた心とその蘇生が作品のバックボーンとなっており、悠久かつ深遠な存在とでもいうべき自然によって千空の心が癒されていく様子がみてとれるが、後者にはそのような暗さはない。あるのは、自然に寄り添い、それを活かして今日を生きていこうとする人間の積極的な営為に対する信頼だろう。誤解を恐れず二項対立的な構図を描けば、「自然賛歌による人間不信からの脱却vs人類の営みへの信頼」とでもいえようか。

その変化をもたらしたものは、もちろん千空自身の俳句人生および実人生の歩みだろう。そして、そうした人間肯定は、そう簡単に成立したものではない筈だ。少なくとも、決して軽いものではない。真摯にかつ前向きな生き様があったからこその明るさや信頼がそこにあり、それが作品となって結実したものだと考える。

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