戦後俳句を読む (21- 2) – 「老」を読む -成田千空の句/深谷義紀

小春日の雀となりて遊びたし

平成17年作。句集「十方吟」所収。

この句集は千空の6番目の、そして生前最後の句集であるが、この句集について千空自身は次のように語っていたと言う。

「あの句集はちょっと優しく、柔らかになりすぎてねえ。私としてはもう一冊、なんとか骨のある、水位の上った、口あたりはよくなくても喰いたりる作品で飛翔したいんですよ。(中略)私の到達点をそこに持ってゆきたい。『十方吟』を通過した最後の句集をねえ」(角川書店「俳句」追悼大特―成田千空の生涯と仕事― 黒田杏子『太宰 志功 寺山そして成田千空』より)

確かにこの句集の作品は、それまでの千空らしい骨太さがやや後退し、どちらかと言えば穏やかな詠み振りの作品が目立つ。しかし、見方を変えれば、懐の深さを示し、自在あるいは闊達な制作スタンスにシフトしたとも言えよう。この辺りの事情を、千空自身はこの句集のあとがきで次のように述べている。

「ここ十数年NHK青森、弘前文化センター俳句教室、BAR俳句教室等、月に八回の俳句教室を担当して、私自身の作風に幾らかの変化を自覚した時期の作品といっていいように思う。」

この「作風の変化」について、別の場でもう少し具体的に語っている。

「俳句教室ではみんな職業が違うんです。(中略)私も影響を受けてますよ。(中略)農業を五十年、六十年とやっている方の人生体験。そういう人から聞く話はおもしろいですね。(中略)自分の世界を自分のことばでどうとらえるか。しかし、俳句の骨法はちゃんと学びながら、そういう方向へもっていきますので、カルチャーは私自身、張り合いがありますし、勉強になるんです。」(角川選書「証言・昭和の俳句」より)

この句集には、こうした句境を象徴したような作品もある。

八十の路八方に稲穂かな   『十方吟』

死去の直前まで、千空は「俳句は沸くように出来る」と語っていたと言う。まさに、昨日までの自分を壊し、新しい俳句作家として生まれ変わっていく。そんな作業が楽しくて仕方ないといった様子が窺える。過去の実績に囚われることなく、新しい可能性をひたむきに探っていく。そんな向日性が、晩年に至るまで千空のバックボーンであり続けていたように思う。
この「十方吟」を越えた句集を編みたかったという千空だが、残念ながらその思いは叶わなかった。千空自身も心残りであったろうし、千空ファンの一人として、千空が最後にどのような作品世界に辿り着いたのか、千空の言う「到達点」を是非とも見たかったという思いは強い。

さて掲出句に戻ろう。一見すると、穏やかな老境を淡々と詠んだ作品とも見えるが、ここでは少し違った見方を提示してみたい。

千空の生涯は、ある意味、恐ろしく「大器晩成」型だったと言える。もちろん32歳にして萬緑賞を受賞するなど、早くから結社内では注目される作家であったが、その人柄からか、あるいは津軽の地を決して離れようとしなかったからなのか、長い間全国的注目を浴びることは稀だったと思う。ところが、77歳にして第4句集「白光」で蛇笏賞を受賞した辺りから様相がガラリと変わってくる。その3年後には第5句集「忘年」で日本詩歌文学賞を受賞(80歳)、また平成17年には読売新聞俳壇選者にも就任する(84歳)。80歳前後にして注目度が急上昇し、句業が一気に花開いた感がある。それはそれで喜ぶべきことなのだろうが、はたして千空自身はどう思っていたのだろうか。掲出句は、まさにその当時詠まれたものである。穏やかな老境とは程遠い、びっしりと詰まったスケジュール。「こんな筈じゃなかった」という千空の嘆きの呟きが聞こえてきたような気がする、と言ったら穿ち過ぎだろうか。

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相馬遷子を通して戦後俳句史を読む(4)

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