覗かれる節穴がある秋の末 堀口祐助(1952年 『句集栗の花』)
第二次大戦後の日本が朝鮮戦争の特需による経済的復興に弾みを付けたこの時期、それでも一般市民の暮らしはといえば、まだまだ貧しいものだっただろう。当時の住宅事情を見ると、人口の増加に対して全くの不足状態でしかもかなり狭小だったらしい。平成生まれの人には想像もつかないかもしれないが、家には隙間や節穴が当たり前のようにあちこちにあった。
「秋の末」というますます寒くなっていくような時期をあらゆるものが足りない貧しさの象徴として書きながら、それでも「節穴」くらいは「ある」というユニークな視線。さらにはそこを「覗く」人がいる、つまりはそこを通る人もやはり同じように貧しく、あるいは家のない人かもしれないという世情も読み取ることが出来る。
秋風やをとめの顔を腹の中 永田耕衣(1951年 『驢鳴集』)
夏石番矢氏の解説によれば「永田耕衣は通常の美醜の分別を超越する」とある。「腹の中」を「はらわた」ととればそうなろうが、「胸の内」の意で読めば、男の決意の句と取れる。「胸の内」という言い回しよりぐっと男臭く深いところに収めた感じ。冷たく乾いた「秋風」を背に、男はどこへ向かうのだろうか。
以前、俳句と川柳の違いについて知人が語った中で、「作者の生活環境の差」が関係しているのでは、というのがあった。ざっくりと資料の略歴をみてみると、たしかにこの時期前後の俳句や短歌の作家には大卒や高卒という文字が多くあるが、川柳作家には学歴にすら触れられていないものが多い。単純に「だから」とはいえないが、川柳に流れる生活臭のようなものや俳句の客観的な視線の根底部分には、こんな事情も関係しているのかもしれない。
短歌なので秋とは限定できないのだが「夕燒」のイメージとして。後半部「悲し曇のはての夕焼」と、ここまで同じ印象の語を川柳では重ねて書けないだろう。それほど14音の差は感情表現において大きく異なる。冒頭に書いたが第二次大戦のあとすぐ朝鮮戦争が行われている最中、敗戦国として太平洋の向こう、かつての敵国への援助を、日本海を挟んだ隣国での戦争のためにしているという葛藤。「悲し」と言わざるを得ない心情がはっきりと記されている。
「秋」とは一方で「実りの秋」というように豊穣の象徴でもあるはずだが、詩歌の場ではもの悲しさや暮れゆく様で用いられる方が多い。川柳には季語の観念が基本的にないが、冒頭の句でいう「秋の末」の表現は、実体験であるより象徴性で語られていると思われる。豊かに実った稲穂ではなく、刈り取られた後の乾いた土に雀が落ち穂を探すようなイメージ。このあたりのとらえ方は、柳俳に関わらず日本人の感情として共通しているのかもしれない。