戦後俳句を読む(13 – 2) - テーマ「冬」 -  戦後における川柳・俳句・短歌/兵頭全郎

寂しさに大根おろしをみんなすり  岩井三窓(1959年 『句集三文オペラ』)
なさけうれしくきつねうどんにむせかえり  同

「大根おろし」は冬、うどんは「鍋焼きうどん」で冬の季語になるそうだが(間違っていたらスミマセン)川柳なのでイメージとして。

以前のテーマ「秋」の際に少し触れたが、川柳と俳句の作者の生活環境の差について、同じタイミングで野口裕氏(=文中の「知人」)が『週間俳句』上でそのことについて文章にしていた。曰く「明治以後の俳句を担っていたのが書生で川柳は商家の小僧さんが中心だった(要約)」とのことで「川柳を支えていたのが最も貧しい階層の人々だったのでは」としている。

『週間俳句』名古屋座談会印象記  野口裕

岩井三窓は川柳の最大結社である「番傘川柳社」で編集長を1986年まで務めた番傘を代表する作家の一人である。資料上にピックアップされた20句は全て「貧乏」だ。「寂しさに」という状況にいながら「大根おろしをみんなすり」というわずかな喜びの瞬間。「なさけ」を受け「うれし」を素直に出しながら「きつねうどん」を一気にすすり「むせかえ」った瞬間を切り取った句。いずれも貧しいながら「生きている」という実感をスチール写真のように捉えている。これらの句は現在も人間諷詠とか、いわゆる「番傘調」として受け継がれているようだが、今のそれは「わかりやすさ・平明」などといったある種の呪縛によってステレオタイプ化されてしまっていて、画素の粗いCG写真が大量にコピーされているような状況が見受けられる。当時なぜこのような句が評価されたかを分析し、では今どのような形でこれを表現すべきかを考えなければ、この方向での川柳は潰れてしまうだろう。コピーのコピーを続けていけば、やがては原型を留めていられなくなる。
(尚、岩井三窓氏は本年9月22日に他界(享年89歳)。ご冥福をお祈りいたします。)

冬の波冬の波止場に来て返す  加藤郁乎(1959年 『球體感覺』)

いわゆる戦後の貧しさというものを表現する際、俳句は「空虚感」を、川柳は「極貧」をベースにしているように思える。もっとも、1959年は皇太子のご成婚や長嶋茂雄の天覧試合サヨナラホームランなど「華やかな昭和」のはじまりのような時期でもあり、その分貧富の差も相当な体感を持ってあったと考えられる。冷たく荒い「冬の波」が吹き曝しの「冬の波止場」へ、当たり前のようなことだがそれが当たり前に「来て返す」無情。これを見ている者が見窄らしい格好をしていようが毛皮のコートを着ていようが、ただただ「冬の波」は繰り返し「冬の波止場」を浚うのである。ここに書かれている「冬」は徹底的に冷たい。それだけに読者は、眼前にあるその場から少しでも遠ざかろうとして温もりを欲することだろう。

ゆずらざるわが狭量を吹きてゆく氷湖の風は雪巻き上げて  武川忠一(1959年 『氷湖』)

短歌が「私」を書くとき、言葉数の多さからより「具体的な個」である「私」に近づく。「ゆずらざるわが狭量」への自戒だろうか、自らの心を映す「氷湖」に吹き込む「風」は「雪巻き上げて」いくほどの勢いである。「冬」のイメージはやはり冷たく色数の少ないものとして書かれているが、この歌にはこの時代の匂いや空気感は感じられない。先の「冬の波~」の句でも時代性を抜きにして読むことは可能だが、背景にある時代を感じながら読むと句のリアリティが強まるだろう。対してこの歌は個に具体性がある分、却って時代を超えた普遍性をもって読むことも出来る(もっとも三枝氏の解説文によれば、この「狭量」は作者自身を見つめたものであるらしいが)。

この「私」に読者の一部は共感を覚え、またある読者は他人事と感じるだろう。「具体的な個」は、例えばドラマの主人公の設定を細かくつけていくほど実在感が増して親近感が湧く場合と、自分とは別物であるという拒絶感を強める場合、両方の可能性をもつ。柳俳と短歌のどちらを選ぶかは、この具体性の強さをどのレベルで持ちたいかが分かれ目になりそうだ。大幅に話を戻すが、では現在、俳句と川柳を選ぶ理由として、そこに「貧富の差」がまだ存在するのだろうか。だとすれば、俳人が何を「豊か」とし、柳人が何を「乏しい」と感じているのだろうか。疑問は深まるばかりである。

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