戦後俳句を読む(10-3) 攝津幸彦の句 3編/ 関悦史

外科室の雀わけなく蛤に(鹿々集)

 秋の季語の「雀蛤となる」、空想上の季語なので、ふだんは慣用句のように自動化した言い回し、単にそういうものとして受け流すだけなのだが、ここに「外科室」が介在することで、何か実際に医学的な施術を受けてスズメがハマグリに変身したような妙な印象が生じている。

 さらに曲者なのが「わけなく」で、この語によって、まともに考えれば物理的には到底不可能なはずの、異生物への改造手術という難事があっさり実現されてしまっているように見える。スズメの体内のひとつひとつの器官や細胞、臓器や骨格が内側からCGのように軽やかに分解されては瞬時に新たな組成を生み出し、ハマグリに変貌していくさまを思わせ、静かで軽やかでありながら同時にグロテスク。

 「外科室」で一旦物質化された「雀/蛤」が「わけなく」であっさりと再度非物質へと戻される往還運動により、言語という抽象物のなか以外ではなし得ぬ、言語のなかでのみあらわにされ得る生命現象の無気味さというものを見せられた思いがする。

 そこでもう一度「雀蛤となる」が単に秋の季語であるという地点にまで立ち戻れば、この句において視覚的に残るものは、あっさりと秋を迎えてしまった空漠たる外科室のみとなる。スズメもハマグリも無論いない。

 いのちとは、言語のなかでの扱われかた、分節のされかたひとつで現われたり消えたり、見えたり見えなかったりする、認識と意識の内外を自在に跨ぎ超えてしまう、つかみどころのない現象なのであろうかという不可思議の感も湧く。

かたつむり常の身を出す空家かな(四五一句)

 普通に読めば「空家」から「かたつむり」が出てきていると、ただそれだけのことに見えるが、「常の身」の「常の」とは一体何か。

 わざわざこう断わられると、「常ならぬ身」を「かたつむり」が出す潜在性というものも考えられ、空家というものが持っている、懐かしくも「常ならぬ」想像を喚起させる詩的な力、その化身として「かたつむり」が「常の身」をのぞかせているような具合にもなってくる。

 あるいはこの「空家」は人家のことではなく、「かたつむり」の殻のことかもしれない。

 「かたつむり」が「常の身」を外に出している間、殻のなかには「かたつむり」の身はないので、それを「空家」と呼べば呼べる。

 しかし殻といえども身と分離することが不可能な「かたつむり」の身体の一部ではあるのであり、そう考えるとこの「空家」は、つねに「かたつむり」にまといつき、その一部をなす、死の影のごとき空虚ともとれる。それは「かたつむり」に限らない全ての生命体が持っているものだ。「常の身」を出すことができるというのは必ずしも恒常的にいつまでも続きうる事態ではなく、その期間は限られている。それでこの「かたつむり」は誰かといえば、いつの間にか読み手であるあなたであり、私になっている。あとには「空家」ばかりが残る。

御子様ランチ白き夏野の中にあり(四五一句)

 高屋窓秋の《頭の中で白い夏野となつている》は、意識そのものが空白にまで近づく、或る極限的な失語と茫然のなかに現われた自然のイメージを掬っているが、この句ではそこに「御子様ランチ」が置かれている。

 失語と茫然のなかに不意に幼年期の記憶や郷愁が介入したというべきか、むしろ失語状態が郷愁へと心を導く通路として用いられているというべきか。

 不意に介入した要素がもうひとつある。色である。ざらついたモノクロームの映像を思わせる「白き夏野」に対し、「御子様ランチ」のカラフルさが介入しているはずなのだが、しかしそれらは一句のなかでは曖昧に馴染みあっているようで、一句全体がとりむすぶ映像としては色があるともないとも見定めがたい。その各部の明晰さと全体の曖昧さの矛盾と両立が、一句を夢の時空に似たものへと仕立てあげている。

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