4人の参加者による幸彦鑑賞7句⑤ ―岡村知昭・大橋愛由等・中村安伸・堀本 吟

きりぎりす不在ののちもうつむきぬ   『鳥子』

岡村知昭
この一句において「不在」であるのは、果たして「きりぎりす」そのものだろうか、それとも自分の目の前に姿を見せていない何ものかなのだろうか。前者とすれば「きりぎりす」の鳴き声も絶えてしまった秋の夜が、自分自身の心象風景のごとく荒涼として立ち現われてくるだろう。後者であるのならば「キリギリス」の鳴き声は、大きな喪失感に打ち震える自分自身に強く響き渡ってやまないのだろう。もちろん作者にとってこのふたつの読みは想定済みではあるのだろうが、もしどこかの句会でこの一句と出会ったとすれば、「切れの位置があいまいで読みが割れてしまう」との評が出てきそうではあるのだ、そのように一番に言いそうなのは他ならぬ作者本人かもしれないのだが。だがこの一句に対するふたつの読みは、結句「うつむきぬ」できちんとひとりの人間の像を作り上げてみせる。「きりぎりす」もいなくなった空間に、自分にとって大切なものがいまや存在していないこの場所に、慟哭も激情もなく、ただ「うつむき」、ため息をつくほかない自分自身。「うつむく」ことが紛れもなく、自分のファイティングポーズであること、その確かな意思。

大橋愛由等
象徴性に富む虫である。〈アリとキリギリス〉で示されたイソップ寓話は、日本社会に人生訓として深く刻印され、〈キリギリス〉的な享楽主義者であってはならないとの文化的圧力となって顕現する。これに対して「アリだって忙しく働いているようでいてその集団の中には実は何もしていない者もいるのだ」と反論したとしても、それは小声となるし、自らを日本社会の敗者と認める言説になるだろう。こうした文脈でこの句を詠むことにする。〈きりぎりす〉に仮託するなにかが、その場にいない。自分が〈ケ〉の世界にいることを覚醒させたそのなにかの存在は軽くない。〈不在〉であるのは、そのなにかと別れがあったのだろうか。〈うつむきぬ〉との感情表出は、そのなにかを受容しきれなかった悔悟であり、欠落となって深く影を落としているのだ。

中村安伸
「不在」なのはきりぎりすか。それとも、明示されていない作中主体「われ」なのか。うつむくのは誰か、等々、いくつもの解釈が可能な句である。こ のように多様な解釈をもつ句は攝津作品には珍しくなく、成功すれば句の内容の豊かさにつながるのだが、この句の場合はやや拡散してしまっているよ うに感じられる。いくつもの経路が併存していてどれを選択するにも決め手に欠けるのである。この句のつかみどころの無さの最大の原因は「不在ののち」というきわめて抽象的なフレーズである。複数の解釈を併存させてポリフォニー効果を狙った作品において、読み難さを感じさせないためには、すべての解釈が瞬時に了解されなければならな い。抽象的なフレーズを咀嚼するために立ち止まらなければいけない場合、タイムラグによってそれらをうまく響きあわせることが困難になる。「きりぎりす」が、イソップ童話や王朝文学などによってたっぷりと象徴性を加えらた存在であること、「不在」というキーワードがニーチェなどの哲 学思想へつながる回路をもっていることなどを上手く個人的な思い入れに接続できなければ、手応えを感じることの難しい作品であり、攝津作品のなか では平凡なものと判断せざるを得ない。作品外の付加情報を使うなら、攝津幸彦という作者と製作時期を考えれば「きりぎりす」で切れる二句一章的な構造を意図したとは考えにくく、あるて いど解釈の幅を限定することもできるだろう。ただし、それによって作品の価値が大きく向上するわけではない。

堀本 吟
ほぼ三つの情景が浮かんでくる。

●じっとうつむいていた「きりぎりす」がいつのまにかいなくなった、が、残像はくっきりと「存在」する。●いや、置き去りにされながら、内なる沈黙の世界を覗き込んでいる別の思索者の姿も見える。●もしや「不在」とは「きりぎりす」ではなくて、私自身?、思索者がもうそこに「不在」になっても、「きりぎりす」は今もうつむいて「存在」しているのである。

昆虫の生態にリアリティもある、が、モノの位置のいれかわりに観念操作を強いられる。一句の主体を探そうとする読み手自身が作ってしまう「不在」の豊かなイメージ。掲出の句は「きりぎりす」を啓示のように置き、「不在」という観念的な言葉を斡旋して、イメージ世界の入り口をつくる。俳句にはいくつか固有のルールがあり、それを逆用して存在世界のあり方をたしかめている。

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