戦後俳句を読む(28 – 2)攝津幸彦の句【2012年の攝津幸彦再読】②/堀本吟    

一九七〇年~八〇年代の「俳句ニューウエーブ」 

  

別立てで、アピール文、九月八日の神戸文学館で行う《団塊の世代/1970-80年代の俳句ニューウエーブ〈攝津幸彦〉を読む》シンポジウムのことと、パネラーによる事前の一句鑑賞を掲載させていただいている。アピール文を出した時から既に、シンポジウムが始まっているというのが今回のコンセプトの特徴的なところである。(出来るだけ知識を共有したいということと、インタラクティブにその場で、問題意識を生み出したい、という気持ちがある、摂津幸彦についてもその時代についてもわからぬ要素がいくつか出てきている)。しかも、そういうことを置き去りにして、平成の俳句世代がどんどん育ってきよび戦後俳句史)を読む》の一部なのだが、その時に語り合うテーマとかなり深く絡んでくる、というより、絡ませるつもりである。

 テーマが絡む、というのは、詩客のこの欄で、皆さんの研究を読んだり自分の俳句の史的テーマを遡ったりすると、例えば、「時代区分の仕方」と、「時代区分をする意味」、ということが自分の中でアイマイになりつつある、ということに気がついたりする。

 そのわからなくなっているところを、もう一度明らかにしてみる、ということである。

ひとつ例をかかげておこう。 私は、最近書く文章には、「戦後とは第二次世界大戦終了の後の時空のことだ」とできるだけ断っているのだが、最近とうとう、その意味での「戦後」という言葉自体をどう考えていいかわからない、したがってどうしてこれが短歌のモチーフになるのかが全く実感が伴わない、と短歌を作る二十五歳の青年から直接言われた。私の作品が下手くそだったから、ともいえるし、彼の中では戦後の短歌史がまだ構成されていないのだ、とも思えた。が、「戦後」が、一九四五年のそれだということ自体が彼には納得できないのである。今の若者は、「9・11後」、とか。「3・11後」、とかいえば、社会の根本を揺るがせるような大きな災害や状況変化の意味がわかるのだろうか?そういう同時代経験とともに、かかる抽象的な命題を好まない心情も、彼の短歌から窺われた。

私は、その非社会性を避難がましくいっているのではなく、そういう関心は年齢や生活事情が変わればいかに変貌するかはわからないことだ、。

しかし、私は、じつは,その時突然,自分が人に解られようとすることへの意欲の喪失、という心境におちいったものである。さびしいことに、この状態は最近しばしば忍び寄る老人性のウツ状態ともおえるのだが、自分が大切にしてきたテーマやモチーフが、ほぼ全的に理屈からではなく感覚から拒否されている。まあ、新世代が育つということはそういうことなのかもしれない。しかし、振り返って反省してみるに、今の、俳句の二〇代三〇代の人たちが、かつての青春俳人たちのように満を持して差し出している「現在の俳句」の面白みが、私には本当のところが今ひとつ理解できているのだろうか?彼らの表現がわかるとしたら、どういうことが、私自身が納得していないのかもしれない。 どちらにしろ、あまり歓迎すべきことではない。が、こういう表現や思考をやめてしまうならばともかく、死ぬまで現役を貫くとしたら、個であり続けることが孤立無援状態ということになるわけだから、そういう状態にもっともふさわしいテーマはなんだろうか?

とまた考える。

 

またしても攝津幸彦とその時代からはじまった表現の動きががふっと思い出されるのはそういう時である。 

抛らばすぐに器となる猫大切に ( 器→うつは とルビ) 第三句集『與野情話』昭和五十二年 沖積舎
比類なく優しく生きて春の地震(地震 → なゐ とルビ)
弟へ恋と湯婆ゆづります (湯婆 → ゆたんぽ とルビ) 第七句集『鹿々集』 一九九六年 ふらんす堂
 

攝津幸彦は、時勢を斜めに見たり茶化したりすることはあっても、そういう存在への関心の外に出ることはなかったのであるが、現実現象のうちに沈みきっている類のリアリズムの方法は取らなかった。その短歌青年の現在の心理に近い形で、これに近い位置で、しかし、日常些末事が想像力よって変貌するおもしろさを見落とさなかった。そして、その好奇心の動きを言葉の解体や変化に結びつけて、常に想像力の「秩序」化することを攪乱しようとしていた。平凡にことのない日々を送りたいことと、その逆と、矛盾した関心のうちに生の時間を過ごしていたとも言える。

「戦後」の直後を抜け出しかけた団塊の世代の「「吃り吃りの饒舌」,自己矛盾するこの語り口の亀裂に、俳句形式の方が近寄ってしまった、という高柳重信の言葉を思い出そう。 言葉が生まれる原型の場面はこういうものであろう。攝津幸彦を読むということは、つねに自分を彼の時代に呼び返すことだし、さらに私も彼も生まれていなかった時代の感性が味わう孤独にたちかえらせる契機でもある。そして、常に現在時のこの瞬間に引きすえられる。言葉はその時にしか生まれないが、いつしか時空の流れの内に組み込まれる。

「一九七〇~八〇年代の俳句ニューウェーブ」と、私は言いたいのだが、この一方は、厳密には任意されてはいない。若き日の攝津幸彦や坪内稔典の「日時計」という同人誌や、そこから別れた「黄金海岸」(坪内、摂津、大本義幸)、江里昭彦、上野ちづこらが俳誌ジャック(?!)をしたという「京大俳句」、「天敵」(澤好摩)、「未定」(夏石番矢、林桂、高原耕二、江里)、また彼らが集合した「現代俳句」が持っていた勢い、を今の時代の若者たちは知らない。私にしてからが、その具体的な動き方や交流の実態はよくわからず残された句集や時折の回想の中で窺い知るのみである。入り混じったその足跡を見る限り、彼らが落ち込んでいたところはまさに形式が生まれる現場なのであった。それをゆるした面白い転換期。摂津幸彦も、隠れもなくそういう時代の申し子であったわけだ。

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