第1回シンポジウム「宛名、機会詩、自然」 第一部「ゼロ年代から10年代に~三詩型の最前線」 (part 2) 俳句の最前線

  • 日時:2010年10月16日(土)午後2時10分開場 午後2時30分開演
  • 場所:日本出版クラブ会館 鳳凰
  • パネラー 佐藤弓生、今橋愛、田中亜美、山口優夢、杉本徹、文月悠光、森川雅美(司会)

俳句の最前線

森川 ありがとうございました。今、身体性、口語、作中主体、視点とかいろいろとポイントになる言葉が出ましたが、その辺も含めまして、次に俳句に移らせていただきたいと思います。髙柳克弘さんについて、山口優夢さんお願いできますでしょうか。

山口 髙柳克弘『未踏』という句集を若手、10代20代30代のなかで、現惰性のある作品として推薦させていただきました。ここにあがっている十句をご覧になっていただければ分かるように、非常に文語調で流麗な文体を持って書いていらしゃる方です。だからといって古めかしところがあるかというとそうではなくて、例えばよく話題にあがる句でいえば。「ことごとく未踏なりけり冬の星」のような、非常に青春性のある作品なんかも書いていらっしゃる。ただ、青春性というのがそのままダイレクトに現代性なのかというと、非常にある意味では疑問がありまして。

 ぼくなんかでも、高柳さんの句集を読んだ時に一番感じる、現代生きている感覚を共有しているなと思うところは、そうした演出された青春性ではなくて、例えば、「刈田ゆく列車の中の赤子かな」という句が、七句目にありますけれど、この句に見られるような寄る辺ない感じが、ひとつあげられるのかなと思います。というのはたとえばこの句でいえば、「刈田」という大きな、冬の稲をもう刈ってある田んぼが出てきて、その中を「ゆく列車」にだんだん視点が合わされていき、大きなものから小さいものに移っていくわけですね。その中で、「赤子」というのは一人でいるわけではなく、お母さんに抱かれているんでしょうが、こういうう風に書かれると、何か「赤子」が列車の中でぽつんと一人でいるような、そういう感じがして。この「赤子」が列車のどこにいるのかはぜんぜん分からない。何かそういう寄る辺ない、われわれはどこに行くのだろうという、あるいは人間存在の小ささというのを、非常に感じられるのではないかと、ぼくは思っています。ただそれは暗いものではなくて、「亡びゆくあかるさを蟹走りけり」という、非常に明るい、虚無的な明るさの中でそういうことが行われていたりする。というのが非常に興味深い特徴かなと思っています。

 で、何というか、さっき三つの詩型で男女が非常に対照的で面白いという、話がありましたが、この句集も先ほどの光森さんの歌集とある意味では似ているところがあって。作中主体が何か行為者として、行為をしていることはほとんどないのではないかと思います。行為者たらんとしているよりは、観察者たらんとしているところが、この句集全体にありまして。観察者として寄る辺ない普遍的な人間存在というものを、描いているという感じが。まあそれが、現代性というより普遍的なものなんですけれども、それを現代という時代の中でやっていく。素材としてもそうですし、感覚としてもそういうところがあることが面白いと思って。それは次の御中虫さんの、観察者としてよりもむしろ行為者として作中主体がある、ことと比べると非常に対照されるんじゃないかと思います。以上です。

森川 ありがとうございます。では次は御中虫さんの作品に関しまして、田中亜美さんお願いします。

田中 えーと、御中虫さんの作品について紹介させていただきます。まず、高柳さんというのはいまの若い歌人では、代表的な存在であるんですが、なぜあえて対立軸として御中虫さんを出してきたのか、ちょっと説明してみようと思います。いま現役で、特に20代とかで活躍されている方には、高柳さん、あるいは隣に座ってらっしゃる山口優夢さん、あるいは神野紗希さん、佐藤文香さんという方々がいらっしゃるんですが。じつは彼ら彼女らが創る俳句は、もちろん違いはあるんですが、普通の俳句というんですかね。俳句というのは割合、年齢層が高年齢に傾いているんですけれど、そういったところと同じ条件で出されている。いわば、匿名で出されてもいい俳句だと認められている。例えば、隣の山口優夢さんはこないだ角川俳句賞を獲られましたけれども、あるていど若いからいい俳句だとか、そういったことではなくて、俳句として洗練されている、俳句としての形式がきちんとしている、ということがあるんだと思います。

 そういった点から見ると、御中虫さんというのは、「第3回芝不器男賞受賞作品」なんですが、これはちょっと面白い賞でして、百句単位で出すといところがあります。それと40歳以下の人が出すということで、既発表でも未発表でもかまわないんですが、ということがあります。これから御中虫さんの作品を読んでいくうえでは、この百句単位で出された40歳以下の人の作品であるという、面白さがあると思います。俳句を読むときに、私たち俳句内部にいる人間は無自覚になりがちなんですが、俳句を一句で読むのか百句で読むのかというのは、実は違う問題で。私たちは一句で、例えば高柳さんの俳句とか、鑑賞できるんですが。ところが御中虫さんは、もちろん一句で読んでも面白いんですけども、百句として読んだときに割合、ひとつの物語性というものが立ち上がってくる。そういった点で、いまの若い人の中ではそちょっと境涯なところが面白いかと思いました。つまり高柳さんとかの普通の俳句の場合、非連続の連続といいますか、俳句の断片性というか、断片と断片と断片が重なり合わされていて、モザイクだったり、あるいは印象派の絵画が、ひとつひとつは水色の線やピンクの塊だったものが、遠くから見た時にひとつの光の感じがあったり、海の感じとかが出てくるように、非常にモザイク的なのに対して。御中虫さんは最初から最後まで、ひとつの物語を築いていく、連続性が感じられるところが、面白いなと思いました。それもおそらく百という単位だからできたのだと思います。

 それから、もうひとつ着目したいのは、この百句の時の書き方ですね。いま連作単位で書かれていることもあるんですが、わりあい口語調の表現が多いです。それから、百句を並べてみてみると、実は季語がばらばらなんです。夏の次に冬が出てきて、その次に秋が出てきて、春が来て冬が来てという感じで流れています。皆さんから見ると、案外それは当たり前のことかなと思うかもしれないんですが、俳句の人から見ると、春の次に夏が来て秋が来るという、自然詠の循環に沿った書き方の方が、慣れているもんですから、そこで割と意表を突かれる。何というのでしょう。季語という問題意識を、春の次に秋が来るそして夏が来て秋が来ると、乱反射させる感じで、季語がプリズムの破片みたいに転がり込んでくるわけですね。そこでちょっとインパクトがあるのかなと思いました。また、口語も文語も現代仮名遣いもばらばらに書かれています。これも文語調は文語調、口語調は口語調と統一することを、私たち俳人は意識しがちですが、あえてそこのところを全部ばらばらにしている。つまりある意味俳句の、何ていうんでしょうね、拘束性を逆手にとってカオスを演出しているような、ところがあるように思えます。ちょっというと、仕組まれたカオスといった感じです。

 で、具体的な作品をとして読んで見ますと。俳句は短いものですからさくっと一言ずつコメントしていきます。「じきに死ぬくらげをどりながら上陸」「くらげ」は夏の季語です。この「くらげ」というのはちょっと擬人化されているような気がします。「虹映る刃物振り振り飯の支度」「虹」というのは夏の季語といった感じがするんですけど、これはちょっと漫画的な感じがします。「結果より過程と滝に言へるのか」これはおそらく疑問形だと思うんですけれども。春の小川がさらさら流れているのは、いかにも「過程」といえるんですけれども、「滝」というのはすとんと落ちるわけですから、結果しかないんですね。いわれてみたら、「滝」には「結果」しかないから、「過程」といわれたらかわいそうだな(笑)、と思えてくるところがあります。その次がなかなかしたたかだなと思うんですが。「混沌混。沌混沌。その先で待つ。」これは要するに、「混沌」というのを3回繰り返して、ちょうどその真ん中のところに丸を置いているわけです。で、「混」と「沌」をあいだに丸をおくことで、「混沌」とあいでさせているということで、いかにも分かりやすいといえば分かりやすいんですが、こういったことも十七文字の形式の中でできる、ということです。その次の「季語が無い夜空を埋める雲だった」実は彼女の句の中には季語はばらばらですけれど、とっても散りばめられてます。これは無季の句なんですが、無季の句を「季語がないと」わざわざメタ的に断り書きを入れてるんです。それがちょっとおかしかった。その次の、「机を蹴る机を叩く私は蚊ぢやない」前の句に「あなたがいる二畳のホットカーペット」というのがあって、次にこの句が来る。何か四畳半のアパートの二畳のホットカーペットのある部屋で、同棲している二人みたいな、ちょとそういった物語性を前置きとして感じさせる感じで、この句はあると思います。で、この人の面白いところは、「歳時記は要らない」みたいなことを書きながらも、実はこ俳句がもし面白いと思えるとしたら、ある種季語を承知していることによって、楽しめるところがある。例えば九句目の「この恋は成就しません色変へぬ松」「この恋は成就」しない、なんてことはいくらでもいわれることなんですが。「色変へぬ松」これは実は季語なんです、俳句やっている方はご存知だと思いますが。秋に紅葉とかが色づいて、その中で松だけが青々と茂っていることなんですけれども。「色変へぬ松」なんて季語は、ちょっと使えませんよ。若い人で「色変へぬ松」なんて使うのはよっぽどだと思います。それをあえてパンキッシュに持ってくるということですね。あと、同じ恋のことをいいながら、「夏の終わりに終わりはないあなたが好きだ」「あなたが好きだ」ということは、無限のバリエーションでいわれているわけなんですけれども、何か夏と冬で「成就しません」といってみたり、ちょっとポジティブ見方をやっているということは、案外夏とか冬という、季感の意識に支えられているんじゃないかなとと思いました。個人的に一番すきなのは、「乳房ややさわられながら豆餅食う」以上です。

森川 ありがとうございます。いま非常に面白い問題がいくつか出ましたが。非連続性モザイク、対してひとつの物語としての連続性。ここでも口語という問題が出ました。また、普遍性、観察者と行為者ということもいわれましたが。そういうことも含めまして、短歌や自由詩から意見とか、何かそんなに新しくないんじゃないかとか、そういうところがありましたら、ご意見いただければと思いますが。いかがでしょうか。

山口 森川さん、新しくないと思ったんですか?

森川 いえ、私は新しくないということは思いませんでしたが。あくまで定型というものがあって。そうですね、特に御中虫さんには驚きましたね。こうゆう形で書けるということが。それでは、佐藤さん、違う定型としていかがですか?

佐藤 今回選ばれたテキストの、男女の体温差について、私はあまりうれしくはないのですが、ただ皆さん必然からそうなったと思っています。まず髙柳さんの7句め、「刈田ゆく列車の中の赤子かな」。不思議な句で好きなんですけれど、まず「刈田」という広い場所があって「列車」があって、その「中の赤子」と、単純にズームインでは考えられないんです。なぜかというと、もし列車の外から詠んでいたら赤子は見えないわけで、列車の中にいる人が詠んでいるなら「刈田ゆく列車」は見えないし、見ている人が違う場所に同時にいるような、不思議なところを読めばいいのかと思ったのですが……山口さん、いかがでしょうか。

山口 たいへん面白い問題を提起していただいた思いますが、ぼくは読み方は人によって様ざま。俳句というのは十七文字しか情報がないので。今から言うことが俳壇で共有されていることとは思っていないですが、ぼくはこれはやはりある意味、神の視点に立っていると、別にそれを見ている誰かを仮定しているわけではなくって、「苅田いく列車」の景色、そしてその中にぽつんと「赤子」がいるという、どんどん収束してい句視点とぼくは考えていて、そこに見ている誰かというのを仮定しないと、気持ち悪いというのは非常に短歌的なんじゃないですか、むしろ。

佐藤 そうですね。啄木の有名な「東海の小島の磯の白砂に/われ泣きぬれて/蟹とたはむる」という歌は、なぜか「われ」にズームインしてしまう。神視点だったはずが「われ」に来てしまうというのとは、ちょっと違うということですね。それは面白いです。あと、御中虫さんの句は、百句全部拝読すると確かに、ひとつの同棲時代のような物語が見えるんですけど、このように十句だけ抽出すると、例えば「乳房ややさわられながら豆餅食う」でいろんな想像ができる。一緒にいたくもないけれど義理のある男性と、たまたま個室にいたら胸を触られたというセクハラバージョン。これからこの人といい仲になりたいなと思っていたら、触られて喜んだというバージョン(笑)。この人とはそろそろ別れたいと思っているバージョン(笑)。そういう読みのブレというのは、田中さん、いかがお考えですか?

田中 あのう、結論から申しますと、まさしくそのブレがあるところが、俳句の面白さだと思います。私がこれを面白いなと思ったのは、古今東西女性はあちことで乳房を触られていると思うんですよね。で、「乳房ややさわられながら豆餅食う」ということで、私もやっぱりここで「ややさわられながら」も「豆餅」食っているわけですよね。だから合意の関係性ではないのか(笑)。でも、「乳房やや」と合意だったら、なでられながらでいいのでは。「さわられ」というのは触診みたいな感じで、タッチはするんだけど、なんていうんでしょうね、ものとして?まれている感じがします。そうすると、ちょっとセクハラ気味で嫌な感じで食べているのかなとか、いろいろと思っているんですね。ただまあ、ものすごく深刻でないのは、「豆餅食う」というのが最後にあるわけですから。この「豆餅」でちょっと諧謔の、これが面白いと思うか思わないかでやっているんだと思うんですけど。この「房ややさわられながら」というのは、実は「豆餅」につながるのが面白いんじゃないかなと思います。以上です。

山口 ちょっと補足してもいですか? 「房ややさわられながら」というのは、田中さんはいろんな読みのブレが面白いといわれて、ぼくもそうだなと思うんです。そのブレがとっぴおしな方向に飛ばないで、「豆餅食う」というところに意識が落ちるので、終わっているのが面白いかなと思いました。

佐藤 俳句って必ず落とすというか、ロマンチックにいくかと思ったら、やけに生活感のある展開で落とすというような方法が、ひとつのセオリーですよね。これも「やや」というのが非常にうまいし。「なでられ」でなくて「さわられ」の理由もいま分かったような気がします。一応喜んでいるけど、うれしくない気持ちも出ている。どちらにしてもジェンダーバイアスという視点から見ると、やっぱり女性って、誰かとの関係性においてしか作品が作れないのかなという、そういう意味での限界は感じます。ほかの方はどう思われますか。

森川 杉本徹さんいかがですか。

杉本 杉本徹です。いま佐藤さんが、百単位で見ていくと物語が見えてきて、といってましたが。こういう連作的な書き方というのは、割合あるんですか。

田中 割合連作というのは新興俳句でもやられたというバージョンタイプ。ただ、いわんとしている事が大体分かってしまうんだったら、100行詩で書いちゃえばいいじゃないかと。

杉本 そう、わりとそういうこと思ったところがあって。高柳さんなんかは俳句の一点に、すべての自分の書記を集約させようというのは分かるんですけれども。御中虫さんの方は書かれているものも非常に面白いんですけれども、書かれているものからかはみ出ていて暴れている主体が、ありありと見えて、それを見ていると、この人は詩を書いても面白いんじゃないかと。

森川 詩を書いても面白いといういい方も乱暴ですが。そのあたりは田中さんでも山口さんでもどうですか?

山口 やめてください、俳句から引き抜くのは(笑)。でも実際、御中虫さんがこれからどう書いていくのか、ということでもあると思うんですが。この百句を見る限りでは、えーとそうですね、田中さんがおっしゃるように百句見ても面白いというのもあるのですが、別に1句ずつ見ても面白い。「歳時記は要らない目も手も無しで書け」というのは、本当にすごいなと思って。「歳時記」というのは俳人にとて目や手のようなものじゃないですか。歳時記を通しして見るということがあるので、それも拒絶し、「眼も手もなし」と拒絶し、俳句形式の中でやるということが新しいのかもしれない。逆に杉本さんに聞きたいのは、こういうことは現代詩として新しいのかということを、ぼくは現代詩というのをあまり知らないので。こういう感覚というのが俳句だからこそ新しいのか、それとも現代詩としても新しいのか。さっき現代詩としても新しいというのは、何か短歌の方で嫌な言い方として出てきましたけれども(笑)間か買うとしてこういうのが新しいか、ぜひ現代詩の人に聞きたいところであるんですが。

杉本 詩として出されているわけではないので、これが新しいかは分からないんですが。ただ、俳句として読んだときに面白く、意表突かれますよ。一句一句はかなり断言というか、断言命題というか、命令口調というか、そういうものがつながっていると思うんです。詩として見ると、難しいですけれども、意外と断定形命令形のものは、再読三読してみると飽きるんですよね。これが詩として読んだらの答えになるかは分からないんですが、たぶん高柳さんの方は、再読、三読、四読ごとに深まると思うんですけれども、意外と消費されやすいというのは、断言口調にはあると思います。でもこれは面白いですよ非常に。

 あと短歌のことで聞きたいんですけれども、光森さんの歌のことに関して、佐藤さんのレジュメにも書いてある、「古くからの叙情と新しい素材がシームレスに見える」といところ、古くからの抒情というのはどこら辺で意識されているんですか? また、どういうことなんでしょう?

佐藤 そこはちょっと荒っぽい書き方で申し訳ないんですが。例えば一首目ですと、「鈴を産むひばりが」でファンタスティックな感じを差し出して、「ねえさんが云ふでもこれでいいよねと云ふ」と、「ねえさん」への思慕のような気持ち、漠然としたファンタジーや憧れの気持ちが、そのまま歌われている。何か北原白秋のような昔のロマンチックな歌を読んだ気がして、そのように「古くからの叙情」といってみました。三首目が一番典型的でしょうか。「高木(かうぼく)の淡きこもれび自転車のタイヤに夏の風をつめをり」という、とてもロマンチックとしかいいようのない感じ、これを「夏の風」という表現の一点に賭けて、あとはすらすらと五七五七七で流していく。こういう部分のことを言ったつもりなんですが、よろしいでしょうか。


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3 Responses to “第1回シンポジウム「宛名、機会詩、自然」 第一部「ゼロ年代から10年代に~三詩型の最前線」 (part 2) 俳句の最前線”


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