第1回シンポジウム「宛名、機会詩、自然」 第一部「ゼロ年代から10年代に~三詩型の最前線」 (part 1) 短歌の最前線

  • 日時:2010年10月16日(土)午後2時10分開場 午後2時30分開演
  • 場所:日本出版クラブ会館 鳳凰
  • パネラー 佐藤弓生、今橋愛、田中亜美、山口優夢、杉本徹、文月悠光、森川雅美(司会)

短歌の最前線

森川 まずはじめに、皆様にお配りしました推薦作品から話を始めさせていただきたいと思います。最初に短歌の佐藤弓生さん、光森裕樹『鈴を産むひばり』についてお話していただきたいと思います。

佐藤 こんにちは、佐藤弓生です。光森裕樹さんの歌集『鈴を産むひばり』についてお話しさせていただきます。まずお手元のレジュメの補足ですが、実際の本は活版印刷で、中身は一首二行取りでレイアウトされています。一行が二十文字ですので、例えばレジュメの一首目の「鈴を産むひばりが逃げたとねえさんが云ふでもこれでいいよねと云ふ」は最初の「で」のあとで改行されていて、次が二行目に送られているので、ゆっくり時間を掛けて読めるようなレイアウトになっています。それをちょっと念頭においてご覧いただきたいと思います。比較的若手の作品で現代性があるものという条件で選んだのですが、最初から逆説的なことを申しますと、歴史的あるいは伝統的な、ここ百年くらいでしょうか、そういう表現と密接につながりを見せて、古典的なつくりになっているところこそが現代的ではないかと思いました。

 昨日思い出したことですけれども、90年代の詩人の詩論を読んでいると、たまに短歌の紹介もあって、「この短歌は現代詩としても優れている」といういい方の文章を見かけることがありました。あるいは北原白秋の短歌を引いて、「このようなすばらしい定型詩もあるが、この人は自由詩もちゃんと書いている」とか、たまにそういうことをいわれる方がいまして。わたしにはそれは、単に短歌はだめだといわれるよりもさらにだめな評価に思えて、90年代からずっと恨みのようなものを抱いてきました(笑)。歌人でも私より年上の人はそれを感じていて、去年も先輩歌人と話していたら「詩人や俳人の集まりに行くと、どうも短歌は下に見られている気がする」とこっそりおっしゃって、そういった意識を歌人は持っているところがあるんですが。光森さんの歌を読んだ時に、そういうことから解放されていて、短歌は現代詩として優れているのでなく、短歌として優れている。そして現代詩人や俳人にも短歌として差し出したいという新鮮さを感じました。この20年ほどの、歴史としてはもっと長いのですが、何か鬱屈したような場所から素直にはじけ出た感じがしました。

 具体的に作品に即して読む前に作者の紹介をいたしますと、光森裕樹さんは1979年生まれ、京大短歌会で活躍され、2008年に角川短歌賞を受賞されました。現在は東京在住で、インターネットサービスのシステムエンジニアに近い仕事をしています、とのメモをご本人よりいただいています。ご職業としては最先端のところにおられて、活版印刷で歌集を出しながら電子出版も計画されているそうです。出版はいま二極化がいわれていますが、その出版でも最先端と伝統技術を両方手がけられるという、技術的スキルも高い方です。その中にあって、レジュメの前半の五首はたいへん抒情的で、一首目などは大正ロマンを感じさせるようなところから始まります。二首目では口語体で句跨りを駆使しながら、新しい技術を見せている。三首目、四首目はうまい歌ですね。四首目「友人のひとりを一人の母親に変へて二月の雪降りやまず」に見られる数字のメタモルフォーゼなど、誰が見てもうまいといえると思います。五首目の「行方不明の少女を捜すこゑに似てVirus.MSWord.Melissa」は、ご職業を感じさせる用語「Virus.MSWord.Melissa」を使いながら、アメリカのプロファイルもののミステリーみたいな要素を混ぜるように、違う世界をぶつけながら抒情的な雰囲気を出しています。

 後半になると内省的な内容が増えてくる。例えば七首目、「或る友が世界に選ばれ或る友が世界を選びなほしたり、今日」という、言葉は抽象的ですけど、特に「世界を選びなほしたり」というところに何かどきっとするものがあります。単に輝かしい世界へ新たに出て行ったのか、もしかしたら自殺のようなことを選んでしまったのか、ちょっと両極端で分からない、あやしいところがあって。次も、「だから おまへも 戦争を詠め と云ふ声に吾はあやふく頷きかけて」と、直接時事的なことを詠うのではなく、その前にいったん留まって考える力というものを、身につけていくような感じがします。

 全体に、自分自身のことは書いていないにもかかわらず、この人の考え方の変化の軌跡のようなものが見えて、ひとつの青春の静かな物語のようなものをつくりあげています。これは後ほど紹介される、髙柳克弘さんの『未踏』という句集とも方向性が似ているようで、今の若い人の一つの在り方なのかと思っています。

森川 はい、ありがとうございます。続いて同じく短歌の今橋愛さん野口あや子さんの『くびすじの欠片』についてお願いします。

今橋 同人誌「sai」と「未来短歌会」で短歌を学ばせていただいています今橋愛と申します。こういった場所でお話をさせていただくのは、初めてで、今日は非常に緊張しております。素っ頓狂なことも言ってしまうかもしれませんが、どうぞお手柔らかにお願いします。私は野口あや子さんの歌集『くびすじの欠片』をご紹介させていただきます。よろしくお願い致します。

 この歌集には野口あや子さんが15歳から20歳までに作られた歌、三一一首が入っています。なかには「短歌研究新人賞」をとられた「カシスドロップ」という連作も含まれています。またこの歌集で「現代歌人協会賞」をおとりになられました。野口さんは現在23歳で、今も若い歌人の中で最も注目を集めている一人だと思います。歌人だけでなく、俳人や詩人にも響く歌集だと思い、今回選ばせていただきました。この歌集を読んで、まず分かりやすい特徴としては、恋の歌がとても多いということがあります。特に性愛の歌が多く、三一一首の内、百首近くもあると思います。他に恋の歌はもっとあります。そのことに改めて驚きました。プリントの八首目「くびすじをすきといわれたその日からくびすじはそらしかたをおぼえる」、十一首目「くびすじをなぞるいっぽんの指があり私はかたん、と傾いていく」なんかがそうだと思うんですが、主体が『性的対象物』である『少女』をちょっと過剰すぎるくらいに演じすぎているように感じられるところが、あると思いました。そこに、そのような演じ方をしなければ、その時期を越えられなかった、主体のぎりぎりでいっぱいいっぱいの、心を感じるようにも思いました。先日読んだ漫画の中に、こういうセリフがありました。「ええねん、あたしらは若いときは世間様の注文した女ちゃんとやってきたんや、これからはあたしもあんたも好きにさせてもらお」 野口さんの歌集の作中主体は若すぎて、若すぎるまま『世間様の注文した女』を、がりがりとまじめに演じている。そんな印象を私は持っています。

 この歌集の良さは、多すぎる性愛の歌ではないように思います。四首目「痛々しいまでに真白い喉仏震わせながら愛なんて言う」、七首目「言葉とかお前ほんとは嫌いだろきらいだろって闇を掻くひと」、十首目「肘にある湿疹ふいに見せるとき目をそらさない君がいたこと」。この三首は先ほどの外からの目線ではなくて、恋の相手を主体が見つめています。当たり前のことなんですが、見つめているので主体がポーズを取ることができなくて、演じすぎは見えないです。特に十首目は好きな歌です。恋の相手との関係性の中から掴みとってきた、真実味のある歌だなあと思います。この歌の瞬間の「君」や「君」を見つめる主体は、信用できる感じがします。ただそのことも過去形で表されているので、今はもう「君」も主体のそばにいないようなはかなさも感じる歌です。この歌集は全体でいらだっているんですけれど、三首目「ただひとり引きとめてくれてありがとう靴底につく灰色のガム」。性愛の歌やいらだちの中にぱっとこういう歌が出てくると、「ありがとう」という言葉がしみて、本当にうれしかったんだなという気がして、息のつける好きな歌です。全部事実を書けば本当のように感じられるのとは、また別だと思うのですが、他の人と間違えない正直な主人公「野口あや子」という人が、はっきり五七五七七に乗っている、光森さんの歌集とは、またちがった歌集だと思いました。以上です。

森川 ありがとうございました。いま二つの歌集についてお話されまして、ある90年代の自由詩のいやな話を聞いてしまいました(笑)。短歌らしい短歌と、響くという話、これは遠いようで近い気がするんですが。一度立ち止まって考えることと、客観的という話も出ましたが、それらの点も含めまして、二つの歌集に関しまして、あるいはそれ以外でもよろしいですが、俳句や自由詩の関係の方、あるいは短歌の関係で、ここは補足したいとかありましたら、お願いします。

山口 俳句をやってます山口優夢と申します。今ご紹介いただきました二つの作品、ぼくもたいへん面白く読ませていただいたんですけれども、今の佐藤さんの話もたいへん興味深く拝聴させていただきましたが。最初に「現代詩」でも通用するという、短歌の現代詩コンプレックスみたいなとこから開放されて、短歌としてすばらしい短歌を、これは目指しているんじゃないかという、お話でしたが。ぼくなんか俳句をやっている人間で、あと現代詩をやっている人もいらっしゃいますけれども。非常に短歌らしい短歌というのはどういうものか、聞いてみたいんですが。現代詩や俳句ではなく、短歌としてすばらしいという、短歌はどういうものを指すのか、けっこう本質的なことに関わっていくと思いますので、ぜひお聞かせ願えそれも十人歌人がいれば、十の答えがあるんですが、例えば現代詩は歌うということを否定する歴史が、戦後あると思うんですね。何か、何ていうんでしょうかね、調子よく言葉に引っ張られるようにして、何か心にもないようなことは絶対いうまいという、ことがあったと思うんですけれども。もちろん光森さんが軽薄に歌っている、というつもりはないんですけれども、基本的に歌を否定しないところでやっていく。二首目の「風邪。君の声が遠いな。でもずつとかうだつた気もしてゐるな。風邪。」のようにナンセンスなことを、そして何かぼんやりした抒情というものを、そのまま素直に歌っていく、こういう歌うという意識がひとつ。それと関連しますけれども、定型の遵守ということですかね。この定型というのは、五七五七七きっかり創られているから定型感があるかというと、必ずしもそうでない、逆に破調気味で創っていく方が定型感を感じさせるということもありますけれど、このことは後で御中虫さんの俳句とかでも出るかも知れませんが、ともかく光森さんは非常に定型遵守で、野口さんもそうですね。この二人は短歌という形式について、どこか忠実でいようとする。その中でできることを誠実にいっていこう、ということがあると思います。
ないでしょうか。

佐藤  十人歌人がいれば十の答えがあると思いますが、例えば現代詩は歌うということを否定する歴史が、戦後あると思うんですね。調子よく言葉に引っ張られて、心にもないことは絶対いうまいという気持ちがあったと思います。もちろん光森さんが軽薄に歌っているというつもりはないんですけれど、基本的に歌を否定しない。二首目の「風邪。君の声が遠いな。でもずつとかうだつた気もしてゐるな。風邪。」のようにナンセンスなこと、ぼんやりした抒情を素直に歌うという意識がひとつ。それと関連して、定型の遵守ということでしょうか。定型というのは、五七五七七にきっかりつくられているから定型感があるかというと、必ずしもそうではない。逆に破調気味でつくっていく方が定型感を感じさせるということもあります。このことは後ほど御中虫さんの俳句でも出る話かも知れませんが、ともかく光森さん、野口さんも定型遵守ですね。この二人は短歌という形式に忠実でいようとする。その中でできることを誠実にやっていこうということがあると思います。

 短歌らしい短歌。難しいですね。もうひとつくらい挙げると、逆説的な言い方をすれば、このシンポジウムの第2部で扱われる機会詠という分野があって、短歌というのは記録を残すことを目的に詠まれる側面があるので、何か事件があると、その事件についての短歌が新聞の投稿欄にたくさん載りますよね。ともかく事件を歌にしてみるというスタンダードな態度があって。それは態度としては大切ですが、でも、新聞がいったことの繰り返しになりやすいので、そこをぐっと踏みとどまる。例えば八首目「だから おまへも 戦争を詠め と云ふ声に吾はあやふく頷きかけて」のように、「だから」という不思議な接続詞で始まって、「あやふく頷きかけて」留まるという、歌人的な態度に対するメタ態度を示すことで、短歌とは何かと問うていく。このメタ短歌というのも歌人の好むところではないでしょうか。メタ俳句の話も後で出ると思いますけれども、特にこのように短歌を詠む態度について考えるということが、非常に短歌らしいと思います。こんなところでよろしいでしょうか。

山口 ありがとうございます。

森川 えーと、自由詩の方から文月悠光さんいかがでしょうか。

文月 こんにちは、今日はすごく緊張しているのですが、私も光森さんと野口さんの作品、面白く読みました。野口さんに関しては以前から拝読していましたので、読み直した形ですが。私は詩の方も書き始めてからまだ5年も経っていない状態なので、あまり他の詩型に関しても読むような機会がなくって、それでも光森さんの歌集を拝読したときには、野口さんのような歌とはだいぶ異なるなと感じまして。すごいバランスがいいなと思いまして。「それはレジストリに“Melissa?”といふ痕跡を残す」という詞書が着いている、「行方不明の少女を捜すこゑに似てVirus.MSWord.Melissa」という歌ですが、こうゆう職業詠というか、専門性というか、IT関係の用語も出現するのですけれども、それが一般読者の壁にはなっていなくて、むしろ作中主体を感じさせる。しかも、さっき翻訳もののミステリーを読んでいるようだと、佐藤さんがおっしゃってましたが、そういう雰囲気もあったりして、面白いなあと思ったり。

 私が読んで特に気になったのは、八首目「だから おまへも 戦争を詠め と云ふ声に吾はあやふく頷きかけて」というう歌で、私が個人的に思ったことなんですが、戦争を経験してない世代が戦争に抱く典型的な恐れ、みたいなものが現れていると思っていて。短歌とか詩とか、そういう形式とは関係なしに、ある作品のなかで「戦争」を描く時、作者が戦争を経験していないのがネックになりやすい、上の世代から非難されやすいということが、あると思うんですね。なにかそういうことを感じさせるうただなあと思いました。で、面白いなと思ったのは、独特の身体感覚というのがあって、ここには出ていない歌なんですが、「みずあめをふふめば一人あの角を曲がってもまたある曲がり角」という歌がありまして、口の中で解けていくみずあめの柔らかい食感が、曲がり角に投影されているようで、そういう自分の体にあるものと外界が近づいてくるような歌。他にも、「齧りいく赤きりんごは半ばより食べている心地する」というのは、何か自分の体から一歩離れて歌っている感じもするんですね。「風邪。君の声が遠いな。でもずつとかうだつた気もしてゐるな。風邪。」という歌の、韻律のかたことの感じと、風邪を引いている体感がよく響きあっている歌だと思いました。

森川 ありがとうございます。今の文月さんがいわれたことに関して、佐藤さんか今橋さん何かありますか?

佐藤 そうですね。今回全体を通して気になったのは、女性の作品は詩も短歌もどこか受難的な文脈で、自分の身体的な部分を押し出して、男性から見られる私というのを描いている。男性作品は、どちらかといえば単なる個人の私ではなくて、普遍的な私を目指す作品が選ばれた傾向にあって、ジェンダーバイアスが目立つことにびっくりしました。でも男性も、光森さん、あるいは詩の中尾さんはさらに過激な形で身体性に接近していて、それにもびっくりしたんです。男性ももっと自分の身体について考えた方がいいかなと(笑)。つまり、女性は自分の身体を売り物にするというふうに非難されるけど、むしろ男性もそれをやればいいじゃないですかと思って(笑)。
 野口さんの歌について補足すると、確かに性愛の歌で身体性にはすでに触れられていますが、ここに引かれていない歌で、お母さんが出てくる歌があります。「あこがれはだれもが持つと知り母のピンクの口紅おそろしくなる」とか、「母の書くメモを幾度も折りたたみ白線の内側で夢を待つ」とか、お母さんと自分の関係、お母さんを見る目。それから「真夜中の鎖骨をつたうぬるい水あのひとを言う母なまぐさい」というように、お母さんを一人の女として見ている娘の目というような恐ろしい短歌がいくつかあって。必ずしも男性だけとの関係ではなくて、家族との関係についても身体性を通じて見ている。お父さんに軟膏を塗ってあげる歌など、病と性というのはけっこうリンクしているので、そういうところに目が行き届いているのが面白いと思いました。


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    on 4月 29th, 2011
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    on 5月 1st, 2011
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