第1回シンポジウム「宛名、機会詩、自然」 第一部「ゼロ年代から10年代に~三詩型の最前線」 (part 4) 現在を描くこと

  • 日時:10月16日(土)午後2時10分開場 午後2時30分開演
  • 場所:日本出版クラブ会館 鳳凰
  • パネラー 佐藤弓生、今橋愛、田中亜美、山口優夢、杉本徹、文月悠光、森川雅美(司会)

現在を描くこと

森川 ありがとうございます。これで三詩型の報告が出たわけですけれど、この中で非常に面白い問題がいくつも出ていまして。やはりまず形の問題、型の問題は非常に重要だと思います。先ほど御中虫さんの俳句に関して、これが自由詩、現代詩であったら新しいかという問題も出ましたし。あと、主体、観察者か行為者かという問題も非常に重要だと思います。それから先ほど言葉の量の問題も出ました。それから、現在において現代詩、自由詩というものに、一番主体の引き裂かれが言葉として現れているのではという、ことも感じました。ということで、ここからは、それぞれの作品に詩型について何かありましたらお願いします。えーと、文月さんいかがですか?

文月 はい、御中虫さんの作品について、一通り百首読ませていただいたんですけど。観察者という言葉もありましたが、高柳さんの作品については、主体と俳句に読み込まれた題材やモチーフが、一定というかだいぶ距離感がとれているんですが、御中虫さんの場合は特に自然を読んでいる時に、生き物でないものにも意思を持たせているというか、わりと自然と人間が等価に置かれている句が多くて、例えば、資料には引用されていないんですけれども、「落ちてこそ雷死んでこそ人間」という句は、そういう点が良く現れていると思います。あと、台風に呼びかける句がありまして、非常に面白いんです。「颱風曰く「困った時がチャンスです」」という句もあります。もうひとつ私が非常に、自然と同化したいのかなと思ったのは、「梅はまだ咲かない私はまだ泣かない」。別に「咲く」ことと「泣く」ことは、つながらないと思うんですけど、御中虫さんお歌では、無理やり引きつけられているとこがあって。野口さんの歌に関しても、ちょっと思ったことなんですが。野口さんの歌の場合は、上の句か下の句のどちらか一方に、心情や主張の吐露がありまして。でも、もう片方にその心情や主張を象徴するモチーフが置かれている、ことが多くて。例えば、「ただひとり引きとめてくれてありがとう靴底につく灰色のガム」という歌がありますが、上の句の方は作中主体の心情であって、下の句の「靴底につく灰色のガム」というのは、その心情を象徴するモテーフですよね。まだ他にも、「せんせいのおくさんなんてあこがれない/紺ソックスで包むふくらはぎ」という歌や、「待ち受けを空から海に変えている会いたくてしかたない夜である」という歌もそういう感じですね。ていうか、野口さんの場合は、はっきりと断絶しているというわけではないんではなく、それでも一定の距離が取れているんですが。御中虫さんの場合は、作中主体と題材が同化しているに近いんじゃないかと思って、それは形式のよるのかと思ったんですが。高柳さんの場合はそうではない。だからそういった違いは、どういったところから出てくるのかなと思って。ま、野口さんと光森さんの歌を比べた場合にも、光森さんの歌は主体をさらけ出す心情は非常に少ない、何というふうに思いまして。形式によるんじゃないとしたら、御中虫さんのこういった主体と題材が同化しているというような、詠み方というのはどういうところから来ているのかなと、俳人の人からお聞きしたいなと思いました。

森川 えー、では俳句と短歌の方からお答えいただければと思います。田中さんいかがでしょうか。

田中 そうですね。作中主体というのはなかなか面白い問題だと思います。実はですね俳句とは短歌というか、俳句の特殊性といってもいいのかもしれないですが、俳句って十七文字しかないんですよね。さらにそれがすべてではないとしても、季語というのを用いるのを約束としたら、平均的に季語は五文字くらい。メッセージの余地としては残り十二字くらいなんですね。ちょっと私事になりますが、私は第二外国語の教師をしておりまして、毎日毎日、初級外国語の構文を教えるような仕事をしています。ある時に初級外国語の構文ですね。五文型とか、SVとか、SVOとか、SVOCとか、皆さん習われた思うんですが。それを十七文字してみるとか三十七文字してみるとか、予習の傍らに実験をしていたことがあるんですね。そうすると面白いことに、何とか俳句の十七文字にしようと思うと、カットしていくものは何かというと、主語をカットしていくじゃないかなと。動詞はカットできない、季語もカットできない。俳句というのは案外、主語+動詞で文章ができていることを、主語+動詞+目的語が文章の基本とするとしたら、その主語がカットされる場合が多いというか。了解されているものとして、カットされていることが多いような気がしました。「客観写生」何ていう言葉がありますが、まさに目的語をどんと出すわけですね。で、そういうところから見ると、ちょっと今回「私性」ということですが、俳句に人間は「私性」ということは考えたことがなかった。作中主体は「私」だと読んでいる人もいれば、私みたいにいい加減に、誰でもいいでしょうと読んでいる人もいて。高柳さんの作品を、「私性」というのはよく分からないんで、ちょっと翻訳してみようかなと思ったんです。これもし英語とかドイツ語に翻訳したらどうなるんだろうと、思ってみたんですよ。そうすると例えば、「ことごとく未踏なりけり冬の星」の、「未踏なりけり」というのはあえて訳そうとすると、主語は「I」じゃなくていいじゃないか、「Man」でもいいんじゃないかと、あまり「私」感がないというか、だけど一般的な人ではなくて、しいていうなら、「私」という痕跡を残した彼という三人称の立場なのかな、という気がちょっとしました。例えば、「うみどりのみなましろなる帰省かな」というのも、これ自体はたぶん書いているのは私の「帰省」だと思うんですね。「My trip」だと思うんですけれども。だけど「帰省」というのはたくさんの人たちがしていて、その中の「One」なわけですよね私は。「うみどり」というのもいっぱいいて、その中の「私」というのは、「One of them」というか、すごく希薄な感じがしました。

 ところが御中虫さんの方をもし翻訳するとしたら、逆に「じきに死ぬくらげ」というのも、三人称で訳すことはできるんですが、ほとんど一人称、さっき擬人化といいましたけれども「くらげ」=「私」になっていく気がする。「机を蹴る机を叩く私は蚊ぢやない」と、「私」という言葉を俳句にわざわざ入れるというのは、結構文字取るんで割合しないんですね。わざわざ「私」と入れるのはちょっと独特な感じがしますね。だから何ていうんでしょう。しいていえば高柳さんは三人称的文学で、御中虫さんは一人称的なところで書かれているから、同じ俳句だけれども、人称というのはまったく違うかなという気はします。

森川 ありがとうございます。えーとではですね、短歌はよく一人称の文学といわれるわけですが、短歌の方からの意見といたしまして、佐藤さんお願いできますか。

佐藤 先ほど文月さんがいわれていた、例えば野口あや子さんの『くびすじの欠片』ですと、三首目「ただひとり引きとめてくれてありがとう靴底につく灰色のガム」の、物に心情を託すというのは非常にクラシックな、短歌では見慣れた手法です。『万葉集』の時代からの、「寄物陳思(きぶつちんし)」という「物に寄せて思いを陳べる」手法があるんですね。ただ、「靴底につく灰色のガム」という、うれしくないものにあえて「ありがとう」の気持ちをのせていく。付いているようで付いていないところが、現代的というかクラシックではないわけです。御中虫さんと高柳さんの違いという話をうかがっていて、御中虫さんが詩を書いたら現代詩としてどうかという話が出たけど、私なんかは御中虫さん短歌も作りませんかといいたくなっちゃう、俳句の人に怒られそうだけど(笑)。確かに説明をお聞きしていると、発想が短歌的かとも思えてきました。でもやっぱり俳句が好きなんですよね、この作者は。というのは、このぎりぎりまでの破調が五七五に一見はまっていないようで、でもきちんと大体三つのパーツに分けて読めるところとか、「色変へぬ松」という季語を使っていることとか、フェティシズムともいえるこだわり。そういったものを見ていくと、この人は短歌や詩には来ないなという。こういうふうに崩れたように見えるものほど、実は定型に執するところがあるのではないか。

 現代詩については私は勉強が足りなくて的外れかもしれませんが、ここであげられている中尾太一さんの「アトモスフィア」だと、何をいってもいいわけですね。そうすると必要な要素、「東京、ルビコン、アンフォルメル、雛罌粟、テクノクラート」というように、ぜんぜん違うものがその人の中で一種の地図を成している。それも一枚でなくて、多次元的な地図。引き裂かれているというより、まあ「悲鳴」といわれれば確かにそうなんですけど、一人の中にたくさんの人がいるというのかな。多和田葉子さんのエッセイに「いろいろな人がいるからいろいろな声があるのではなく、一人一人の中にいろいろな声があるのである」という文章があって、詩を書く方ってまさにそういう感じの身体性を内在的に持っているのかという印象を受けました。例えば大江麻衣さんの「夜の水」ですと、「花に感動できません。乳首舐められても感動できません。」というのが、例えば高柳さんや光森さんのように普遍的なところから書く人からみると、そんなことに感動できなくても別に困らないと思うんです。大江さんは「自分は困らないけど、他人が困る。」とか、ともかく困ることにこだわっている。そこが書き方の違いというか、ものの後天的な捉え方の違いとして、他人との関係の中で生きるしかない私というものを、何かきびしいところから見る、その違いを面白く読みました。
 ただ、現代詩についてどうしてものがいいにくいかというと、ここの表現がいいですねといういい方がなかなかできないんです。さっき文月さんが「夜の水」の「みんな死なないといけない。」というフレーズを取り上げていて、たしかにそういうふうにそこが印象に残るというのはあるんですけれど、これがレトリック的にどうかという話がしづらい。 以前は「口語の時代はさむい」とか、キャッチコピーのようにさっと覚えてしまうフレーズがあったような気がするんですが、今はそういうふうになかなか断片的に捉えられない、やっぱりマスで読むもの。中尾太一さんの詩も通読したら、ものすごい長編詩が入っていて圧倒されました。マスでいわざるを得ない理由を私がいうのは僭越だしよく分からないんですけれども、この塊でもって一人語りのように、あるいは中尾さんの場合は恋歌が多いので、一人語りというより、あなたという「大きなyou」に向けて語っているように感じます。マスでいわなければならない理由があれば、教えていただきたいと思います。

森川 ありがとうござます。この点について杉本さんいかがですか。

杉本 どうなんでしょうかね(笑)。俳句短歌に比べると内に篭ってしまうというと、完全に誤解されんですが、簡単に合評しづらいというところがあります。それに関係するんですけど、「現代詩手帖」の「短詩型新時代」の特集の中で、黒瀬珂瀾さんと髙柳克弘さんが城戸朱理さんと、鼎談やっているんですけれども。多少関わるかなということをいっていて、これは面白いなというところがあったんです。最後の方で黒瀬さんと高柳さんの意見が、図らずも一致しているんですけれども、黒瀬さんが短歌の場合は、「本来の意味でのアバンギャルドをいったん保留することで、文学として成立しているところがある。つまりそれが定型を選んだことであるし、定型を通じて外部とつながっていくことだと思う。短歌として目の前の事象や存在とリンクする形をとり、それで他者との差異を際立たせることで私性を帯びている。そう考えると現代詩は潔く外部を切っているように見えます。」と。で、高柳さんの方もそれを受ける形で、「短歌や俳句は芸術なのか、言語芸術として成り立つのかという問題で」、それで、両者とも、高柳さんも黒瀬さんも保留する立場を取っていて、「私としてはなるほどという共有するところがありしました」と。それで、「黒瀬さんは歌のエートスとおしゃってましたが、短歌や俳句を書いている時点で、どこか日本古来からの伝統を踏まえなければならないところがあって、それが先鋭的にいまここに肉薄した現代詩のような芸術とは、異質なものであるのかなと思うわけです。」てなことをいっていて。外部とのつながり、形式上外部とつながりやすいという面が短歌俳句にはあって。黒瀬さんのいいかたを借りると、「外を断ち切ったところに」現代詩が確かにあるといういい方はできると思うので、そういう意味では短歌俳句と本質的に異なる面はある。でもだからこそ、一人ひとりのバイアスといったらいいんでしょうか、内部にかかっているバイアスというのがあって、そこを突き抜けてむしろ外部と、不思議な形で以前よりはつながっているんじゃないかと、ちょっとそんな気がしますけれども。ちょっとへんな答えですけれども。

森川 ありがとうございます。で、形の話が出ましたのでその辺に関しまして、短歌や俳句の方からいかがでしょうか。

山口 一言だけ、今回、俳句も短歌も現代詩も読ませていただいて、たいへん面白かったんですが。一番興味を持ったのは短歌の光森さんの作品で、高柳さんと似ているところがあるみたいな話がいま出ていましたけれども、本質的にはやはり違うところがあるなと思っていて。それは何というか、光森さんが体現している現代性みたいなものは、非常に深い戸惑いみたいなものに支えられていると思ったんですね。それはなぜかというと、「だから おまへも 戦争を詠め と云ふ声に吾はあやふく頷きかけて」と、「頷きかけ」たこともそうですし、こういいながらたぶん光森さんは、戦争以外の素材をフラットにいろいろ出している。海外も一編詠んでいるし、歴史に関しても詠んでいるし、日常からもパソコンからも取っている。いろんな素材を取っていて、「戦争を詠め」といわれると、いやちょっとと。いろんな素材を扱っているんだけども、さっきいった感情というか激情は見られない。短歌は歌い上げるという意識があるけれども、歌い上げるというよりもある意味、俳句に似ているような冷静なところがあるのが、たいへん興味深いなと思って。それと対照的なのは野口さんの作品があって。野口さんの作品はある意味、ぼくなんかは短歌のイメージ通りというところがあって。別に優劣をつける場ではないですが、どちらかといえば共感できるのは、光森さんのような現在に対する、自分がここにいるという深い戸惑いみたいなものを体現させる作品が、あるというのはすごく興味深いなと。そういう意味では、そういうことは他の詩型でもつながってくるなと。中尾さんの作品もきっとそう。ぼくにはあんまり読み解けてないので、これから家に帰ってまた読もうと思うんですけれども、そういういろんな作品が出てきたのはすごく面白いことだと思ったので、外に売っている中尾さんの本とか『未踏』とか買っていただけたら、面白いんじゃないかなと。一応宣伝させていただきます。

森川 ありがとうございます(笑)。じゃあ今橋さんいかがですか。

今橋 そうですね、個人的には、御中虫さんの作品を知ることができたのがうれしかったです。俳句のことはわからないんですけれども。百句という分量でのやってはるということと、とても緊張感の高い世界をつくってらして、自分はここまでの心の緊張感は出されへんなということが文字が少ない分、はっきりと分かりまして、すごいなと思いました。俳句を知らないからかも分から感じることなのかも分からないですけれど、私には逆に、微調整がいってるというか、細やかなところまではりめぐらされている気配みたいなものを、見せていただいたというのが大きいです。

森川 はい、ありがとうございました。時間がだいぶ押していますが、せっかくいらしてくださいましたので、会場の方で何かご質問がありましたら、どなたかお願いできますでしょうか。

藤原 短歌をやっています藤原と申します。杉本さんと文月さんに聞きたいのですが、短歌で高森さんの作品は旧仮名遣いで書かれているんですが、これに違和感は感じませんでしたでしょうか。なぜ旧仮名で書かれているのかと。

杉本 いわれてはじめて気がつきました(笑)。

藤原 実際には短歌や俳句を作っている人、ま俳句はもうかなりの数、9割くらいが旧仮名遣いですよね。短歌もよく分からないんですが、7割とかそれぐらいの人が旧仮名遣いで書いているんですが、それを現代の自由詩を書いている人から見たら、自由詩の世界で徹底して旧仮名遣いをとしている人がいるのかと。

杉本 いや、入沢康夫はそうだし、最近では松浦寿輝の『吃水都市』がそうですね。ぼくはそんなに違和感はないし、その作品に合っていればいいと思うんですが。むしろうんと若い文月さんに聞いてみたい気がします。

森川 文月さんどうぞ。

文月 では話させていただきますと、旧仮名については何だろう、短歌を書かれている方でも、旧仮名と新仮名を使われる方がいらっしゃって、若い世代の方は新仮名から旧仮名に移ったりとか、口語から文語に移ったりとか、割といらっしゃるとお聞きしたことがあるんですが。実はこの目の打ち合わせでも、新仮名と旧仮名は話題になったんですが、現代詩で旧仮名を使うのは何らかの修辞的意図があったりとか、もしくは実作者の年齢からして、旧仮名を使うのが自然であるというのが、あげられんじゃんないかという話で。そもそも私はあまり歴史的体系とかよく知らないですが、自由詩というのは、定型から離れようという運動のようななところから起きたものなので、定型とともに旧仮名からも離れようというようなという、空気があるんじゃないかなと感じて。若い人であえて旧仮名を選ぶ、古語を使ったりという方はよく拝見するんですが、旧仮名をあえて使われるという方は、私自身はあまり見たことがないですね。

杉本 それと、実際いまあえて旧仮名で書きく意図のみが先行しすぎると少々気持ちが悪い(笑)。

藤原 それを俳句と短歌に感じなかった?

杉本 感じなかった。それは明らかに型ですね。短歌俳句が背負っている歴史と型ですね。

藤原 それは違和感なく型ということで受け入れられると。

杉本 そうですね。

藤原 はい、ありがとうございます。もう一個だけいいですか。ぼくは中尾さんの作品と高森さんの作品を知る事ができてうれしかったんですが。御中虫さんの作品で、俳句で俳句のことを書くといういわゆるメタ俳句的なもの、例えば「季語が無い夜空を埋める雲だった」「歳時記は要らない目も手も無しで書け」 この二句はある種の底が割れているというか、手の内が見えている気がするんですが、なければもっといいと思ったんですが。でも、「目も手も無しで書け」はいい句だと、山口さんは褒めてましたが、ぼくは極めてこの二句が嫌だったんですよ(笑)。完全に種明かしだと思ってしまったんですよ。

山口 楽屋落ちみたいなもんでか。こういう句ばっかりだとだめだともうんですよ。ただ、御中虫さんのこの百句以降に、「季語は秋 俳句ってなんですか」という句が『角川』の十月号に載ってまして、それはもうそういう方法の句が面白くないところに、行っていると思うんです。ただ、その二句に関してはぼくと田中さんは面白いと意見したかもしれませんが、少なくともぼくが思うのは、「歳時記は要らない目も手も無しで書け」というのは、少なくとも今までの俳句というカテゴリーに対してガツンと、いきなり凶器を振り回すようなびっくりさせるとこがあって、それは俳句ってなんですかという問いじゃない。「歳時記は要らない」という独断、「目も手も無しで」というから、自分の中から溢れるものでしか書かない、そうでないと意味がないという、表現者としての表明にまで到達しているから、これが面白いんであって、単なるメタ俳句ではぼくも面白くないと思います。だから、方法としてはこれで打ち止めでいいんじゃないかと、ぼくも思っています。どうですか田中さん。

田中 私もそう思います。で、しいてジェンダー的なところでいえば、この人にとって、「歳時記」とか「季語」は一種の父親として、機能しているだなという気がしましたね、何となく。それに対する抵抗者としての女性性というのも透けて見えてきて、その辺がある意味、楽屋落ちかなという気がしないでもないです。

森川 まだまだ話は尽きず、これから面白くなってきそうなところですが、時間もだいぶオーバーしていますので、これで第1部を終わらせていただきたいと思います。皆様ありがとうございました。


タグ: , , , , , , ,

      

One Response to “第1回シンポジウム「宛名、機会詩、自然」 第一部「ゼロ年代から10年代に~三詩型の最前線」 (part 4) 現在を描くこと”


  1. 第1回シンポジウム「宛名、機会詩、自然」 第一部「ゼロ年代から10年代に~三詩型の最前線」 (part 3) 自由詩の最前線 « 詩客 SHIKAKU
    on 4月 29th, 2011
    @

    […] 現在を描くこと […]

Leave a Reply



© 2009 詩客 SHIKAKU – 詩歌梁山泊 ~ 三詩型交流企画 公式サイト. All Rights Reserved.

This blog is powered by Wordpress