第10回詩歌トライアスロン三詩型融合部門受賞連載第3回
ウルカについて
ユウ アイト
ある教えでは夜通し「ウルカ」と呼ばれる勤めを行う一日が
ある。古い護符や法衣で燃えあがる炎を囲み「ハリ」と呼ばれ
る高僧たちが教えを読みあげ、まだ拙い「アタ」つまり律師は
それを口元だけで復唱する。
耳はなんの役にも立たない。炎は己の内に巣くう汚れたこと
ばを燃やし、舞いあがる音節で耳がいっぱいになるためだと言
われている。
足跡を縁取るみぞれ口まめに
山寺の梯を数えうるう年
経典はかつて大きな山火事に見舞われた際、火を
被せ消すために全て踏みつけられてしまった、と聞かされたと
き一人の老いた庭師がそれは鞴として使われたのかもしれない、
そんな風にしきりに私に向かって見せた足で踏みつける動きが
印象的で、
人知れずたたらを踏むは冬の風
炎があがるまで参拝者はまばらであり「シメ」とい
う臆病な鳥が一羽、鞴の音に驚いて鳴いたのを見た。
許可を貰い、御堂にある十一体の像を拝むことができた。託
宣を受けた参拝者が「ハリ」たちの姿を後になって彫らせたも
ので、それぞれが違った姿勢をとっており、本来の並びではな
いためかその目の先も散っている。
向拝柱には「ウルカ」の大きなポスターが貼られている。市
の広報が作成したもので、炎を囲むように配置された十一体の、
彩度がやけに高く vivid な面持ちは、参拝者らに振る舞われる
地酒の深い甘味によるものだ、こう付け加えられていた。
この地方は天狗「ドゥーマ」に関する伝承が多いと聞いてい
た。確かに虹梁にはそのように見えるものが装飾されている。
もちろんそれは神と対になるように描かれているのだが。内陣
に置かれた屏風には赤らんだ顔の「ハリ」が何かを捲いている、
人々が両手をあげてそれを求めている。
聞くと、そもそも内陸では塩を造る術がなかったために、海
岸からやってくる行商は大変歓迎されていたのだ。彼らの新し
い、触れたことのないことばの結晶はここの人々をどのように
照らしたのか。私はとっさにある物語を思い出し彼らに語って
みせると、遠い転調に惑うコマドリのような囀りで何か小言を
言われたような気がした。
とても良い題をつける画家がいて、皆その秘密を知りたがった。
ある日、奇をてらって絵の中に潜り込んだ者がいた。画家の描く
「バベルの塔」を参拝する行商のふりをしたのだ。妻子らのため
にこの塩を売りさばく必要があるのだが、私には商いの言葉を扱
う術がなかったので頂に着くと塩は捨ててしまった。
実際、今でも「ウルカ」の終わりに
は、正面の鬼飾りにまたがった「ハリ」が大量の塩を舞い降ら
せ、それは盛大に盛りあがるという、そしてその塩で炎を消す
のだ。塩はその後、春の南寄りの強風によって全て飛ばされて
しまうという。
「ウルカ」の火を守るのは「マウナ」と呼ばれる「アタ」の
中でも特に優れた声帯を持った者たちである。いずれは「ハリ」
として教えを広め人々の信仰心を神に献上する。しかし、だか
らこそそれまでは「沈黙」という意味を与えられ発することば
は厳しく限定される。カタバミの美しさを例えることばさえ許
されない、余りに厳しい勤めに櫓から首を吊る者もいたという。
そういえば昨夜祭り櫓に揺れる人影を見た、と参拝者の一人が
声をあげると、死んだ「マウナ」の火「マウナ・アガーニ」を
見たのだ、と言う者や、それは「ドゥーマ」ではないか、と言
う者で参道は一時騒がしくなったが「ウルカ」の始まりを告げ
る銅鑼の音が聞こえると皆本堂の方を仰いだ。
祭り櫓の太鼓を染める寒茜
「アガーニ」を
囲み十一人の「ハリ」が唱える教え、その後ろで「アタ」は注
意深く口元を読みとり復唱する。
言語化の追いつかなかった文字ひとつ
わたしは取り残された声
私はこのように言った詩人の
ことを思い出した。一文字だけ残されて改行された詩に対する
評だったろうか。
ことばを学ぶとはどういうことなのか、ことばにするとはど
ういうことなのか。歌がうねるほど「アガーニ」の勢いが増し
ていく、赤赤とした「ハリ」の顔を眺めていると、昨日見た屏
風のなかの「ドゥーマ」が塩を捲いて風に去っていく姿を、私
は思い描いてみたのだった。