ランドルト環は傾く 岡野絵里子

岡野詩130823-1
岡野詩130823-2

ランドルト環は傾く 岡野絵里子

八月の水底に部屋は沈む 真昼の声が折れて届く薄
          青い検査室 淡い光の床を踏んで 医師は出て行き 
          技師と患者が残される 技師は検査器械を操作して
          目の表面に風を当てた 眼球は柔らかく凹んで 風を
          返し 何かを思い出したように 微かに潤った 
 
           「・・は・・視力を・・す・・」 水底の会話は圧さ
          れて散らばる 小さな覗き窓に 顔を寄せると 人工の
          奥行きを持つ闇に ランドルト環が浮き上がる アルフ
          ァベットのCに似た 開口部を持つ環が一つずつ それ
          らは不意に 深い淵に消えた 
 
    陽の下で踊る土埃 上履きの底に運動場の土をつけ
   小学生たちが列を作っている 壁に貼られた視力検査
   表に ランドルト環は収まっていた 大きい者から小
   さい者へ 子どもたちは おかしな形の黒いスプーン
   を目に当てるのが楽しかった 図形は見えるけど 先
   生の指示棒が細すぎて 見えないんだよね 見えても
   見えなくても 子どもたちは笑った その日ひらいた
   花のように 
 
 ランドルト環は傾く 子どもたちが老いた後の地上へ
新しい子どもたちと 新しい老人たちの方へ 無数の生
命を抱いて 潮は満ちた 
 
      エドマン・ランドルト博士は 或る日 往来に立って
     自身の診療所の看板 CLINIQ UEの Cを支える釘がゆ
     るみ 文字が傾いているのに気づいた 単一記号Cを用
     いた画期的な視力測定法が 博士によって発表されたの
     は それから間もなくのことであった 
 
    小さな永遠を 恋人たちはお互いの指にはめた 言
   葉は銀色の輪になって 二つの軌道を静かに巡った 
   鳴りながら心に落ちる時間よ 温められたパンのよう
   に 香ばしく日々は過ぎていった 
 
           この世の視力が測られる 幽かな音 技師は黙って 
          レバーを動かす 降る光を読み 喜びに澄む 人の眼
          ただ 心だけを知ることができない 
 
           ランドルト環は傾く 目の中の微細な濁りが 視野を          
          昏くすると 傷が 生きることを難しくすると 
 
           街は水位を上げていた 見えない水 次の季節が近づ                  
          いて来ていた

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