うれしいだけ   久谷雉

0528

うれしいだけ   久谷雉

投げる音で目をさました。知らない誰かが手で掴んでそのまま壁にぶつけて、大きく跳ね
返された。ばらばらの紙になって、あけっぱなしの扉の手前の空中で静止している。寝起
きにはいつも、空腹が問題になる。空腹は私の輪郭を大きくはみだして、この部屋を呑み
込もうとしている。しかし、本当に呑み込んでしまうところを私は見たことがない。いや、
見ることなんて、そもそもありえないのだ。部屋を呑み込んだ空腹はもう、部屋以上に大
きく膨らむことが出来なくなってしまうのだから。

カーテンの陰で空腹を満たしている間に鼻血の話をしておこう。鼻血の止まらなくなった
クラスメートをスーツケースに隠して、東京から大阪まで運んだ話だ。本当は小倉まで指
定席の切符を買ってあったのだが、大阪が限界だった。とりあえず通天閣のあかりだけは
心の眼におさめて関東に戻ろう。スーツケースの鍵穴から滴る鼻血を他の乗客たちに悟ら
れないよう、脱脂綿のかたまりで吸い取ってゆく。静岡と名古屋のあいだはいつも、時間
がかかる。横浜のあたりではまだ、指先に血がつくたびに汚いだとか、病気がうつったら
どうしようだとか、そういうことを気にして何度も洗面所に立っていたのだが、今では自
分の舌で掃除してしまう。舌を動かすことには愛が宿る。舐めている対象へ向かうのでは
なく、舌の動きから舌の動きそのものへ途切れることなく循環しているような愛が。


生暖かな風が私の前髪をやわらかに割る。おはよう、という一言がごく自然に口をついて
出てくる。そして、片腕のように重たいものが天窓を破って飛び込んできて、私を通り抜
けた。それが片腕と大きく異なるのは、私と接触した瞬間のみの恩寵ではなく、持続的な
恩寵そのものである点だ。私は私の体に触れずにはいられなくなった。いや、私の体だけ
では足りないので壁にも触った。壁を激しく押すように触っているのに、私の心臓や脊椎
に痛みが走らないことが不思議だ。複数の夕焼けが私の背後を通過してゆくのが不思議だ。
足元で開いたままになっているスーツケースが消えないのが不思議だ。


ふたたび、不意に落ちてきた。
今度は片腕のようなものではない。
片腕でしかないものだ。うれしいよ、
ただ、
うれしいだけ。

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