先の東日本大震災の影響で完全にかき消された格好だが、今年2月に起きた京都大学入試カンニング事件の少年に対し、7月7日、山形家庭裁判所で不処分の決定がなされたという。少年が逮捕されたとき、大学およびマスコミに世間から大きな非難と批判が起きた。いわく、この程度のことで警察を介入されるとはケシカラン、あるいはこの程度のことでマスコミも騒ぎすぎ云々、という。
マスコミへの批判はまた別として、大学が警察の介入を許したことを批判する文脈は、筆者にとっては情に流されたものに映った。たしかに従来のカンニングであれば、現場および証拠となるカンニングペーパーの類を押さえられ、その試験は無効、場合によっては向こう何年間かの受験禁止といった行政処分といったところだろう。これは国家試験などでも同じである。
だが今回のケースが従来と違うのは、設問がインターネットの掲示板に投稿されたことにより、不正の事実が試験終了後に判明したことだ。こうなると不正受験者の特定に公権力の投入するのもやむを得ない。もちろん、脳科学者の茂木健一郎らによる「報道された複数の大学に共通の受験生を、大学間で情報を共有して割り出せば、少数の候補を特定できたはずだ。少なくともやすやすと警察を動員する前に、自分たちとしてすべき仕事があるのではないか」との指摘は首肯できるが、早期解決することで一罰百戒の態度を示さなければ模倣犯も出かねない。やはり不正行為に対しては毅然たる態度を示すよりほかにない。たとえ魔が差したとしても、やはり悪いのは当の少年である。そこは踏まえないといけない。逮捕への批判も強かったが、おそらくは被疑者の自殺を防止する観点ゆえだろう。もっとも不処分の決定までに時間がかかったことは、少年の今後のことを考えても最善手とは思えないが。
本題に入る。今回の時評で書きたいのはもちろんこのことではない。松木秀の第二歌集『RERA』(六花書林刊)をめぐる一件だ。
一応知らない人のためにことの概略を記しておく。一昨年刊行された『RERA』集中に、村上きわみのサイト「gedo日記」およびツイッター上の表現と酷似している短歌作品が13首あった。これはもともと村上の日記上の文言を短歌作品化したもので、松木がネット上に発表した際には村上にも見える形で行い、かつ事実上の了解も得ていた。だが①それを歌集に収載する際に再度本人の許諾を取らず、②さらに元ネタのある短歌化である旨とその出典も明記せず、③かつ各作品をバラバラに収載してしまったため、版元も権利を侵害していると判断せざるを得ず、その歌を削った改訂版をあらためて刊行したという出来事である。
大分前の話なので、正直、このことについては書くべきか否か、ずいぶん悩んだ。寝た子を起こすかと思う人もいるかもしれないし、少なくとも関係者はいい顔をするまい。
筆者自身も時評の〈時〉の部分には適わないとは思いつつも、誰かが言っておくべきことだから、そこは敢えて考えずに書いておく。話を蒸し返すのが目的ではないので個々の類似内容については細かく触れないが、むしろ問いたいのは、各歌人がおのおののなかで決着をつけてしまい、この問題について正面から論じる、あるいはオフィシャルな見解がほとんど述べられなかったことだ。
もちろん、松木が仮にこの件で結果として表現者生命に大きな影響が出たとしてもそれは致し方ない。それだけ彼の行為は、過失としても表現者にとって重大な事柄であり、それは彼の表現者としての認識の甘さゆえなのは否定できないからである。『現代詩手帖』2009年4月号に掲載された文章における釈明など、リカバリーもまずかった。少なくとも「作品の管理のまずさ」で済まされる問題ではない。率直に言えば、筆者は松木の釈明を読んだとき、失望した。読む限り、自分のしたことの重大性を理解できているとは思えず、また文中から申し訳なさも伝わって来なかったからだ。だからこそである。歌壇も明確かつ真摯な反応を返すべきだった。
結果的にこの問題がフェードアウト的に幕引きとなってしまったことは、誰のためにもなり得なかったと思えてならない。もちろん特集を組む程のことではないし、書評で触れるには紙幅が足りないなどの要因はあるかもしれない。
もし『RERA』の作品の出来ばえが駄目であれば、おそらくこの問題も含め誰も見向きもしなかっただろう。それならそれでよい。困るのは、『RERA』が普通に出来ばえのよい歌集だったことだ。だから松木と同じ結社に属する筆者などは、つねに苦いものを飲み下すような心境でこの一連の経緯を眺めていたのである。
無論、松木に悪気がなかったであろうことは、筆者も重々理解している。先に挙げた3つの要素がきちんとクリアされてさえすれば(ただし③はあとがき等の別頁で注釈を加えておけば必ずしもまとめて収載する必要はない)、他者のブログの文言の短歌化はあたらしい試みと認知されたかもしれないのだ。
誤解のないよう断っておくが、何もあらためて松木に罰をと言いたいのではない。ちゃんとした議論がなされなかったことが、歌壇という場の機能的限界を示しているような気がしてならないのだ。
なお筆者は、他人の文章の短歌化などしなければよかったのに、との説には少なくとも賛成しない。松木の試行そのものは支持したい。しかし先の一件により支持できなくなってしまったのだ。
他のジャンルでも昨年の文藝賞(河出書房新社主催)で、受賞が内定していた作品のプロットがインターネット上の他の創作物と酷似していることが判明したため、受賞取消となっている。作為的ではないこと(「インターネット上に発表された文章が著作物である認識がなかった」という弁明もいかがなものとは思ったが)、応募者がプロの作家ではなかったことなどから、著者と作品名は非公表とされたが、これは程度の差こそあれ、今後も充分起こりうることだろう。そのときにクサイものにフタ式の対応を繰り返すのでは、能がない。遅れ馳せながらでもいいから、今回のことについてどうするかを通して、あらためて文学者として、そして表現者としての矜持が問われているのだ。