第1回シンポジウム「宛名、機会詩、自然」 第一部「ゼロ年代から10年代に~三詩型の最前線」 (part 3) 自由詩の最前線

  • 日時:10月16日(土)午後2時10分開場 午後2時30分開演
  • 場所:日本出版クラブ会館 鳳凰
  • パネラー 佐藤弓生、今橋愛、田中亜美、山口優夢、杉本徹、文月悠光、森川雅美(司会)

自由詩の最前線

森川 ありがとうございます。他にご意見はないでしょうか。では、次は現代詩、自由詩に移りたいと思います。全体の討議はその後にするとして、杉本徹さん、中尾太一さんの『御世の戦示の木の下で』をお願いいたします。

杉本 杉本徹ですよろしくお願いいたします。中尾太一さんの詩を選んできました。やっぱり、短歌俳句の人と語る場に差し出すものとしては、面白いんじゃないかなという気がしたので、持ってきました。現代の現代詩の若手の詩人の中でも重要な1人であることは、間違いないと思います。中尾太一さんのことをごく簡単に紹介してておきますと、いま30代前半で、4年前になるのかな、25年くらいに1回やる、「現代詩新人賞」という不思議な賞があって、それの2回目を取ってデビューした人ですね。詩集としては2冊ありまして、この『御世の戦示の木の下で』が2冊目の詩集で、去年、ちょうど一年前の今頃に出たものです。で、資料に載せたのはごく短い詩ですが、詩集全部見ていただければ分かるんですが、こういうつながり方はしていないんですね。もっと何といいますか、長編詩とまではいわないんですが、非常にいろんなものがつらなっていて、一筋縄ではいかない1冊になっていると思います。

 で、今語られてきた短歌俳句の現在性とどうリンクするのか、よく分からない面もあるんですけれども、中尾さんの持っている現在性を、短歌俳句の現場にも突き合せたいと思いました。まず、中尾さんが持っている現在性について、きわめて表層的な言い方をしますと、一にも二にも質と量の圧倒的な過剰さなんですね。これは詩集を実際見てみないと、わからない面がありますが、この過剰さは圧倒的です、類例がないくらい過剰です。で、この過剰さは、型のない制約のない、自由詩現代詩の中においても、今もいいましたが、ちょっと異様なくらいに際立つと思います。単に量の過剰さだけならば、誰でも根気と忍耐と、眠気をこらえてやっていけば実現できるかもしれないんですが、中尾さんにおいては、この量というものを切実に要求してくる、彼の詩語の質の面の奔流があると、そこがほんとにすごいと思います。まあ、すごいというか、ちょっと異常なくらい質が促す量の多さですね。詩集として、ちょっと見たことのない風景がここに現れている。見たことがないという意味で、まずごく表層的な意味で、中尾さんの現在性がそこにあると思います。では何でそんな過剰さが要求されるのか。中尾さんの場合は、詩語と詩行の奔流の密度の中に、これは捉えにくくていろいろないい方が可能だと思うのですが、非常に捉えがたい非常に個人的な存在の根っこに関わるような物語、とでもいうんでしょうか、さっきは御中虫さんの俳句の方で、物語が透けるといいましたが、ちょっとそれとは質を変えたような、もっと個人的な存在の根っこに関わるような物語、それが実体験なのか疑似体験なのかは、よく分かりませんけれども、何らかの非常に切実で重要な、一種の引き裂かれの物語ですね。引き裂かれたことの宿命と、それを受容しそして抵抗する、そして最後にはぎりぎり信託するという、そういう物語といったらいいのでしょうか。そういう決して表面には現れない、ある散文脈の物語のフレームというのが、見えないんだけれどもやっぱりかすかに透けて見える。見えるというよりもかろうじて触知できるという気がします。で、そういう、疑似体験であろうがそうでなかろうが、そういう隠れたフレームでもって、詩語と詩行を起動させつつ、ここに1冊の書物として埋葬し、そのことによって作品へ昇華させる、そういう詩であるということです。

 つまり、中尾さんの現在性に関わる第2点なんですが、そういう隠れたフレームというものをある意味で絶対手放さない。なぜ手放さないかということですね、あえて、隠れたフレームというものを手放さない。そこにまさに中尾さんが引き受けている現在の、今日的な現代詩における抒情詩というものの、非常に困難な宿命を負っている、現在の抒情詩というものの、中尾さんの戦いの仕方があるからだと思います。確かに、そうしたフレームがなくても、抒情詩は実現できると思いますけれども、中尾さんは決してその点を手放そうとはしない。それが中尾太一の戦い方であり、またここに今日的に困難な抒情詩を考えるうえでの、非常に潔癖な特筆すべき現在の詩の一端が示されていると思います。そういう、仮に疑似体験であったとしても、決して作為ではないような書かれざる物語のフレームというものを、1冊を通して砕いたり拾い集めたり、継ぎ合わせたり再生させたりしつつ、奔流のような詩語と詩行を実現させるということ。そのような形で抒情詩が実現されていることの、むき出しの現在性、抒情詩がそういった形で赤裸々な命を呼吸していることの現在性、ということをいっておきたいですね。あと、私性ということを俳句短歌に絡めていっておけば、これは読んで誰にでも分かると思いますけれども、同一的な私というのをここでは必ずしも、語っているわけではないというです。まあ、本当に驚くべき速度で、単語なり喩なりイメージなり、あるいは切り開かれた一瞬の奥行きなどをほとんど、1行か数行でそこにとど止めて、もう次の場へと手渡していく。私というものもそのように変化し変転していくイメージなり喩なりの奔流によって、逆に照射されてそこに出てくるというもののように思える。そのつど生み出された私の像の、散乱してかつ継続していく姿ともいえると思います。だから定型の場合、わりとこの主体が観察しているあるいは行為しているということは、比較的語りやすいなと感じるんですが、詩の場合、なかなかそこは難しいなという気がします。特に尾さんの場合は、すべての私がおそらく散乱し継続しているように思えますし、そのことがまたひとつのはっきりした現在性かなと、思います。

森川 ありがとうございます。では次にですね、文月悠光さん、大江麻衣さんの「昭和以降に恋愛はない」についてお願いいたします。

文月 えーと、今回比較的若い詩人で作品を選んで欲しいという話で、私は大江麻衣さんの「昭和以降に恋愛はない」という、詩集といいますか。今年の文芸誌(「新潮の7月号に発表された、詩集という形をとった作品で。2009年の8月に、刊行された私家版『道の絵』という詩集があったんですが、その収載されていた10篇に、新作の「新しき恋」「金魚すくい」を加えたものになります。著者の大江さんは83年生まれの女性で、「昭和以降に恋愛はない」の元になった詩集の『道の絵』で、第15回中原中也賞の最終候補作となりまして、審査員の高橋源一郎さんがツイッター上で『道の絵』収載の詩、「夜の水」をつぶやかれた経緯があります。で、なぜこの詩集をこの場に持ち出してきたのかというと、理由はいくつかありまして。まずこの詩集が現代詩の界隈で、いろいろな意味でかなり問題になったり話題になったりしたのですが、それにもかかわらずあまり論じられる機会を得ていなかったのと。もうひとついいますと、詩「夜の水」がごく多くの人に読まれたこと、ネット上でのツイッターという空間が、かなり特殊なことだなと思いまして。情報の叛乱の中にありながらも、この詩が詩として瞬時に多くの人に届いたのはどうしてだったのかと、というのは発信者の高橋さんとは切り離して、この場では考えたいなと思いました。また、昔からそうだったのかむしれないですが、近年、若い詩人の間で詩の散文化が進んできていまして、現在の投稿欄を見ましても、かなり散文製の高い作品が多く、大江さんの詩の場合でも、話し言葉が挿入されており、エッセーのような内容がありまして。非常に砕けた文体なんですよね。散文性はしばしば詩に持ち込まれるんですが、字数のこともあるともうんですが、俳句とか短歌といった形式にはあまり見かけないですよね。なので、散文製とつながり方も、現代詩の一種の特徴ではないかなと思いました。で、個別の作品について私の感じたことを話させていただきたいんですが、

 まず、たぶん一番多くの人に読まれて話題になった、「夜の水」という詩についてなんですが、全体を読んだときに、男性から定められた女性性に対する、女性からの弁明だとか抵抗というのを強く感じまして。周りからはこう見られているかも知れないけど、本当は女子ってこういう風なのよって、そういう一人芝居を見せられている感じがありました。で、私はこの詩を読んでるとついつい声に出してしまうんですが、声に出すとさらに一人芝居みたいでよく分かるので、もし良かったら帰ってから、声に出して読まれるといいと思うんですが。そうですね、あと詩の中ではっきりとした引用とまではいかないんですが、規範の物語からイメージを引っ張ってきた部分が、多くあるように思いまして、例えば、、「みんな死なないといけない。」という言葉があるんですが、その唐突さが鈴木いずみとか髣髴させますし、「アダムは土からうまれた」というのは聖書の話ですし、「海鼠なんか人間の出来損ないだ」というのは福岡真一さんの著作で、『出来損ないの男たち』という新書があるんですけれど。男が出来損ないということで、何かつながってくる思い起こさせるものがありました。私が気づいていないだけで、他の部分にもそういうのがあるのかも知れないんですが、このような箇所から、作中主体が信をおく倫理のようなものが見えてきて、そこから私というものが浮かび上がってくるんじゃないかな、と思いました。

 もうひとつの「金魚すくい」という作品についてなんですが、「金魚を選別しているところを見てみたい。」という言葉があるんですね、ここにある「金魚」というのは、新聞の「投書」のことだと思うんですが、「黒いのに白い斑点がある。」という細かい差異を無視されて、一種の社会的な何か恣意的な力によって振り分けれてしまう、そういう状況に対して、「見ているぶんにはきれいだね。」と、冷めた視点の言葉を投げかけています。ここに読者を突き放す効果があるように思いました。こういう時に作中の私というのは、どこに位置をして「見ているぶんにはきれいだね。」などという言葉を発しているか、不思議に思いました。「宛先はたまにしか載らない。」という言葉は、厳格な他者に向けたものではないと感じたのですが。

 私が個人的に思ったのは、大江さんの作品のについては、一人芝居といいましたが、誰でもない誰かに話している、別に聞いている人がどんな人だろうとかまわないという、そこらへんお人を捕まえて、ちょっと聞きなさいよというような、まったくの第三者に向って語りかけている物語という、形をとっていると思うんですが、中尾さんの詩の場合は特定の誰かに対して語っている。中尾さんの詩集に関しては後からも触れたいんですが、今ここで話さないで後から話すことにします。で、こういったものが、私は大江さんの作品の大きな特徴だなと思いました。

森川 ありがとうございます。はじめにちょっとお断りするのを忘れたのですが、パネラーの予定でした杉本真維子さんが、今回突然急用が入りまして、1週間くらい前ですか、急遽杉本徹さんにお願いしました。杉本さん忙しい中ありがとうございます。皆様申しわけありません。ということで、今出ました自由詩、現代詩に関しまして、短歌俳句の方からいかがでしょうか、何か意見がございましたら。今橋さんいかがですか?

今橋 はい、大江さんの詩に関して文月さんの話、興味深く聞かせていただいたんですが、私の印象では、「新潮」でまず読ませていただいた時は、悲鳴だと思ってちょっと読めないなと感じました。読めないので、目につくところを飛ばし飛ばし目に入れていったんですが、音がどんどん意味を巻き込んで、悲鳴が加速をつけていくところ、痛々しく感じました。これは現代詩だから、プールが広いから巻き込み方がこうなるのかとか。短歌だとこんなにはならない。何でかな。ということを思ったいました。

 あと中尾太一さんの作品では、詩集を今いただいたので、全部読めていないんですけれど、「アトモスフィア」の方にひかれました。先ほどの杉本徹さんのお話で、「引き裂かれ」という言葉があって、その言葉を頭のどこかに残しつつ読ませていただいたんですけれども、何ていうのかな、いまの私の体感では、「東京」と呼びかけたくなる「東京」というのは、何回呼びかけても成就しない恋の相手のような印象があるって。何ていうのかはこの隔てられ感。あとは、自分のことばかりになってしまって、ちょっと恐縮なんですけれども、ちょうど今来週しめ切りの短歌の依頼をいただいていて、「日本は今どこにあるか」という問いで、それを考えているんですけれども、「アトモスフィア」にも通じるところがあるように思って、「日本は今どこにあるか」ということ。現代とか、東京のこと思いました。

森川 ありがとうございます。では俳句の方、山口さん田中さんどちらでもよろしいですが、いかがでしょうか。

山口 非常に興味深く拝読させていただいたのですけれども、いま今橋さんが「悲鳴」ということをおっしゃっていて。中尾さんが書かれたものも大江さんが書かれたものも、それぞれ混乱した主体が別々の位相で見られるのかなと思って。中尾さんの場合には音読した場合には、俳人の関悦史さんみたいな口調で読むのかな(笑)、俳句の人しか分からないと思いますが、同じペースで滔滔と本流のように語るという。語りをされる方なんです。関さんは論理的にいっているようなんですけれど、冷静に聞くと論理的でもなんでもない。杉本さんは引き裂かれといいましたが、そういう自分の中のものを表出している感じが、面白いという気はしました。

 で。大江さんの方は、この「夜の水」とかは、非常に混乱した主体が生で出ているなと思って。というのは、「花に感動できません。乳首舐められても感動できません。」という、フレーズがありますけど、「乳首舐められても感動できません。」ということの意味が、要するに、乳首なめられても性的興奮を覚えないという意味なのか、乳首をなめられたとしても花には感動できないということなのか。実は特定できないとか。その後、自分は困らないけど、他人が困る。」といいながら、「わたしは、おんなのひととして、色んなものが欠けているのだと、おもわれるのだけが困る。」と思うのが自分である、というようなところとかは、実はぜんぜん何ていうのか、はっきりいってめちゃくちゃなんですよ。でもこれがめちゃくちゃだからだめだというわけではなくて、めちゃくちゃな混乱している主体というものが見える。そういう意味で、「悲鳴」というのはなるほどなと思い、聞かせていただきました。


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    on 5月 1st, 2011
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