戦後俳句を読む (19 – 2) – 「男」を読む -永田耕衣の句/池田瑠那

男老いて男を愛す葛の花(『闌位』昭和45年)
河骨や女人を愛せざれば死ぞ(『物質』昭和59年)

合わせ鏡のような2句である。ふと「いろはかるた」や「ことわざ辞典」に並ぶ諺、成句の類を思い出す。「急いては事をし損じる」とあるかと思えば「早いが勝ち」。同じ「た」の項目で「立つ鳥跡を濁さず」と「旅の恥はかき捨て」が共存共栄していて。

ここに挙げた耕衣の2句も、そんな一見相反する諺のような趣がある。先ず、後の方の句から鑑賞してみよう。「河骨」の名の由来は、根茎が白骨のように見えることからだという。水面に浮かぶ可憐な黄色い花、その底に透けて見える白骨めいた根茎……と思い浮かべてみれば、何やら人間の「生きながら既に死んでいる」状態を暗示しているようである。河骨を季語とした耕衣の句には「河骨や天女に器官ある如し」もあり、この「女人を愛せざれば」の句の「愛」も肉体としての「器官」に纏わるもの、性愛として解釈することも可能である。成程、自然界を思えば、繁殖可能年齢を超えてなお長命を保つ人間は随分と「不自然」な存在。自然の摂理からいえば、疾うに世を去っている筈……と耕衣翁が自らを戯画的に詠んだものだろうか。

筆者は少々違う解釈を試みてみたい。男性にとって「女人」はつまるところ自分とは異質の者、異文化を持つ者、訳の分からぬ他者であろう。それを愛することが出来ないとは、異質の者と出会い、衝突したり共感したりするキャパシティがない、ということを意味しないか。先刻の「いろはかるた」でも「類は友を呼ぶ」とある。人は本来同類、同質の者と群れている方が楽なのである。

そこで先に挙げた「男老いて」の句を見るとどうだろう。葛と言えば秋の七草の一つであり、優しげな紫の花を咲かせるが、雑草としては大変な繁茂力を誇る蔓性植物。加えて「葛の葉の」が「恨み」にかかる序詞であることもあり、老いた男の愛執の深さが思われる。それにしても一句のうちに「男」という語が二度出て来るものの、愛されている方の「男」はどんな人物なのか、いっかな像を結ばず、ただ、「老いた男」と同じ性であるということしか見えてこない。この「愛」――、どうも限りなく自己愛に近いものなのではないだろうか。老い込んだ者が発する、自分と同類、同質(である、と思い込める)存在にのみ向けられる愛は、葛の蔓のように蔓延り、自らを絡め捕る出口のないもの……とすれば、「出会いの絶景」を言い、最晩年に至るまで、自分とは異質なる者との出会いを大切にした耕衣の、自戒の句のように思えて来る。

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