天心にして脇見せり春の雁
天の高みをゆく帰雁の群。生死をかけた厳しい空の旅の途中、ひょいと脇見をするものが一羽。どうも私は一糸乱れず同じ動きをしている集団を見ていると胸苦しく感じる傾向があって、この脇見をする雁にはつい肩入れしてしまう。脇見をしたこの雁は、一体何に気を取られたのだろう。「天心にして」とあるからには、地上を顧みたのではないのではないか。迦陵頻伽の声か、飛天の衣のはためきか。何か超自然の、高位の存在の気配を感じ、ふっとそちらへ眼をやった、と読みたい。
物が見え過ぎる者が、世にすんなりと受け入れられることは少ない。この雁も、あるいは次の瞬間には群から落伍してしまうのかも知れない。自らを「私は常に負けていたいというヒネクレた生存競争意識をもっている
」(『二句勘弁』とした耕衣のありようが思われる。しかしながら、生存競争上は全く無益なものの輝きに眼をとめてしまうのが生まれついての詩人なのである。
宮澤賢治『雁の童子』のイメージも重なり、仏教画を眺めているような心地になる一句。(昭和30年『吹毛集』より)