枯草や日の燃え落ちる口の中
冬の夕日が射す枯原にひとり佇んでいる。沈みゆく太陽が放った、光の一筋を正面から浴び、太陽が自分の口の中に飛び込んできたように感じた。一句の実景はこう言った所だろうか。枯色、暮色広がる野に立ち、口の中で「日の燃え落ちる」のを味わっているような主人公の姿には、シュールレアリスムの絵画に通じる凄みも漂う。
さて古来、昇る太陽が口に飛び込んで来る夢を見た女性から偉人、英雄が生まれたとの逸話は多い。日本の有名所では何と言っても豊臣秀吉だろう。昇る日を呑んだ母から生まれる人物を言わば地上の勝利者、強者と位置付けるなら、冬の落日を口に入れた者からは何が生み出されるのだろう。
世に尽きない「競争」について、耕衣は『二句勘弁』で次のように書いている。「私は世の中を、どこまで行っても生存競争だと実感するに至った。清存を期する俳句の世界だってその通りだ。然し、私は常に負けていたいというヒネクレた生存競争意識をもっているらしい。この点よく考えてみたい。
」
枯野に落ちる弱弱しい太陽は、生存競争において「常に負けて」いる者を思わせる。そんな冬の落日を口に入れ、丸呑みにするのではなくその敗北の痛みを確かと味わい受け止めた者から生み出されるのは、やはり地上の敗北者、弱者に寄り添う句なのではないか。読後、冬の入日のような寂しさと優しさが浸みて来る。(昭和45年『闌位』より)