聖域無き挑発
高橋龍『四十集』を読む
肉体は生きて今なお地上を歩む。
ダンテ・アリギエーリ『神曲』地獄篇 第三十三歌より
(寿岳文章 訳)
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高橋龍の新刊、高橋龍句控『四十集』を拝領。
フランス装で文庫サイズ。軽くて、瀟酒。
では、内容も掌中に収まるほどのものかと見れば、それがまったく、そうではない。
高橋龍が、そんなに、あっさりすんなり読者を通過させてくれるわけがない。
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本書にはふたつの章。
「何かが」、そして「アマテラス」。
まずは「何かが」。122句。
深読みは誤読に過ぎず夏霞
と、読者の姿勢を牽制するのではあるが、どっこい、それぞれの句は深読みへの誘発を仕掛けてやまない。
まぼろしの鱶の煮付を我等にも
これはいうまでもなく、三橋敏雄の「共に泳ぐまぼろしの鱶僕のやうに」あればこその一句。
「まぼろしの鱶」と書いて、ああ、あの句ね、と思い浮かべる読者を想定しているのである。深読みへの誘惑をわざわざしかけ、読者を挑発するのである。
彼は他者の死を見つめるそのしずかな目をもって、彼自身の死を他者の目からしずかに描いてゆく。【第一句集を読む】山口優夢<「僕」の鎮魂 『まぼろしの鱶』を読む >より
三橋敏雄の「共に泳ぐまぼろしの鱶僕のやうに」に対しては、こうした批評のことばが紡ぎ出される。それを無視するにあらず。むしろ理解しうるからこそ、そうした「作者の精神性を重んじる」読者を、<俗>の方へと誘導し、即物の乾いた手触りの中に置き去りにするのが高橋龍。
馬の音する幻影の昭和かな
これも、三橋敏雄の「昭和衰へ馬の音する夕べかな」を元にしていることは確実だが、こちらは「煮付」ほど成功してはいない。高橋龍そのものが、三橋の精神性の庭にいて、それを語りなおしている気配が強いからである。
こうして読者への挑発を仕掛けながら、自らが、シカケの虜になってしまうこともあるにはあるが、やはり高橋龍の面白さは、導き出した読者の深読みを、活かさず殺さずのところで、別の具体性へと着地させるところにあるようだ。
脹らめどなほ包茎のチューリップ
現代俳句の作品群に対する教養は、実のところ、高橋龍の主戦場ではないらしい。それは、深読みを誘いやすい誘発材料ではあるものの、さすがに読者を限定しないわけにはいかない。エロティックな意味での深読みを膨張させるのは、それが、読者を狭いところに限定しないからでもあろう。ともあれ、深読みへの誘導によって、読者が「深読み」のところでとどまってしまうのは、実のところ高橋龍にも面白くはないのである。エロティックな意味を「ゴール」にされてしまえば、ことばの連なりは、バレ句となる。<よく見てごらんよ、チューリップの球根は、幾重にも茎を包み込んでいるじゃないか>と即物性への回路が開いているのは、すなわち一句を、複数のイメージへと広がる回路をどれひとつと絞り込むことのないままに活かしたいからではないか。<俳句を通じて言いたいこと>、などハナから信じてはおらず、むしろ、どれが言いたいことなのやらよくわからないというほどに、ひとつの言い回し方が多義的に機能することを望んでいるのだろう、であるからこそ、そうした「多義的なヨミ」をほどこす読者へと表現は仕向けられ、それが読者の限定を招くとはいえ、現代俳句に目が慣れている読み手を挑発するかのような「撒き餌」を放つのである。
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ことあらためて言うならば、高橋龍に「聖域」は無い。
一と夜/二た夜と/鮭吊されて百余年
この句には
高柳重信に高橋由一を
という但し書きが付いている。
吊されて
一と夜
二た夜と
揺れるばかり高柳重信『蒙塵』(昭和47年)より。
高柳重信と高橋由一と。当然ながら、この二人の共通項へと思いを馳せる深読みが始まるわけだが、そして、それは、「表現と方法」というタイトルで論文が書けるような重たさの課題でもあるのだが、山田とすれば、注目すべきは、高橋龍が高柳重信の作品を「聖域」と見ていないことにある。ここでは、作品の一部は、おそらく「近代」を、あるいは「方法性」を対象とした批評を示すためのコラージュの素材となっている。
「聖域」に祭り上げないこと、裏返せば、「俗」の手触りの中におくことは、対象への高橋龍なりの愛なのかもしれない。
ときに、そうした「俗」への傾きは、ダジャレとして余剰し、寸画として決済されるのだが。
バイアグラより蜃気楼(かひやぐら)現はるれ
炎天へ起重機ハイル・ヒットラー
さて「近代」。
もろもろの定義が有るにせよ、日本の表現行為に於いては、個の内面性を重んじてこそ詩的な発見が生れ出るものと考えられた時代と位置付けることができようか。捧げるべき神や王がなく、神話との地続きをもたらそうとする叙事の作法も必要ない「近代的」環境は、個人の精神的な営みの深さを以てこそ、表現の価値であるとする背景となったと仮想してみよう。すれば、作者にもまして、表現に対してその内面性を汲み取ろうとする姿勢を「純粋」と捉える読者の存在が発生したとしても不思議ではないのが、近代的詩歌の状況。ことばの問題は、あくまで「道具の使い方」という論議にとどまり、作者への評価はもっぱらその内面の表出具合に依る、という事態が生れ出ることは、そうした環境下では想像に難くない。個の内面とは、すなわち、そのまま「聖」なるものとして読者の扱いを受けることになるだろう。
おおむね、こうした「近代」への反省は、作品の多様性とともに読者の多様性を生む。そこで、読者と新たなる関係性を生み出そうとする試みとして俳句形式における「方法」が提示されてきた。そうしたあらたな関係性の更新こそが「現代」俳句の「現代」たるところではなかったのか。
高橋龍の「聖」へのヘソまがりぶりは、近代への反省と現代への志向がもたらすもの。個人の精神性を批評の対象とすることへの茶化し。そして、俳句形式の可能性と機能への信頼のあらわれもである。ちょっと、ほめ過ぎか。
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「アマテラス」70句。
個人の精神性などというものはもう放っておいて、聖と俗、そのイメージの多義性を、ともあれ遊ぶ。
高柳重信『山海集』<飛騨>の句群が天国篇であるとするならば、その高橋龍的神曲地獄篇。
<※詩客俳句時評における表記についての註:( )内の仮名文字は、ルビ。句の後の行は詞書。>
新(あたら)しき猿又(さるまた)を穿(は)く/アマテラス
「新しき猿又ほしや百日紅」
渡邊白泉『白泉句集』「水平紛失」
両性具有(ヒジュラ)なれば驢馬(ろば)啼(な)き狂(くる)ふ/アマテラス
「男根の意識 たちまち驢馬啼き狂ひ」
富沢赤黄男『蛇の笛』「黒い卵」
乳抑(ブラジャー)を附(つ)け美須麻流を/アマテラス
「記」上巻七五頁。美須麻流「紀」では御統
石屋戸(いはやど)でラマーズ法(はう)で/アマテラス
ツクヨミよナジャとは何(なん)じゃ/アマテラス
アンドレ・ブルトン『ナジャ』巌谷国士訳
寝(ね)まるマハ眞似(まね)て眞裸(まはだか)/アマテラス
ゴヤ「裸体のマハ」(プラド美術館)
妾(わらは)見(み)るむかうの日女(ひるめ)/アマテラス
「記」上巻八三頁。
「鬼蓮を裂けばむかうも晝なりき」
寺田澄史 『舟蕃ふきよせ』「1」(紙飛行機屋俳句文庫)
シバの女王(ぢよわう)と美脚(びきやく)を競(きそ)ふ/アマテラス
「彼女(シバの女王)は思わず裾をまくり上
両脚をにゆうと露わしてしまつた」『コーラン』 第二七章 蟻(四四)井筒俊彦訳
美蕃登(みほと)見(み)る手鏡(てかがみ)重(おも)く/アマテラス
「記」上巻六一頁。
「紫陽花に手鏡重く病むと知れよ」
中尾白雨『中尾白尾句集』(石田波郷編)
<山田註:中尾白雨(本名・正彦、1911-1936)は、「馬酔木」で活躍したが、25歳の若さで亡くなった。>
那智(なち)の瀧(たき)へモンローウォーク/アマテラス
「ナイアガラ」主演マリリン・モンロー
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手元の一冊をながめているのだが、どこにも頒価が書いてない。
つまり、非売品。
発行所 高橋人形舎 発行 2012年10月15日
四十集と書いて、あいものと読む。辞書には多く、合物あるいは四十物と表記されている。意味は、鯵や秋刀魚などの開き干、鰯の丸干や目刺の事である。鮮魚と乾魚との中間の干物で、何時頃からの名称であるのかはよくわからない。
あとがきはそうして始まる。
前句控の『天津桃』は幼時の思い出につながるが、この『四十集』もわたしが額に汗していた頃を思ひ起す。と同時に、四十集が鮮魚と乾物の中間の製品であるのと同様に、わたしの俳句も、新しさもなく、かと言って枯淡と言えるような代物でもなく、言わばどっちつかずの中途半端でしかないので、そうした意味でも四十集はふさわしかろうと思う。
とのことである。
中途半端、ということだが、聖域なき暴れぶりを読んだ上でこの文を見ると、どうにも現代の状況への批評でもあるような気がしてくる。
それは、まさしく「深読み」なのだろうか。
それとも、高橋龍の術中にはまっているということなのだろうか。
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詩客掲載の作品も、「四十集」に収録されています。
詩客2012年2月17日号作品 「花の雲」