ひとつの白痴的継承
―宇多喜代子編著『ひとときの光芒 藤木清子全句集』
『ひとときの光芒 藤木清子全句集』(宇多喜代子編 沖積舎)が刊行された。『片山桃史集』(南方社 一九八四)に続く、宇多の大きな仕事である。
新興俳句の圏内にあった女性俳人として稀有の存在であった藤木清子の俳句は、これまであまり一般に知られているものではなかった。単行本としては、戦前、阿部青鞋編『現代名句集』第二巻(教材社 一九四一)に「しろい晝」と題する作品一〇〇句が掲載されたことがあったが、藤木の俳句の復権はその半世紀以上の後――すなわち宇多喜代子『イメージの女流俳句』(弘栄堂書店 一九九四)によって試みられたというべきだろう。また『新興俳句表現史論攷』(桜楓社 一九八四)に藤木の句を採録していた川名大も、その後『現代俳句』上巻(ちくま学芸文庫 二〇〇一)や『挑発する俳句 癒す俳句』(筑摩書房 二〇一〇)などで藤木を論じている。しかしながら『旗艦』『京大俳句』をはじめ新興俳句系の雑誌に作品が発表されていたこともあり、藤木の句業の全貌を目にすることは困難であった。そこへ(本書末尾に「遺漏句(他誌への発表句)があるやも知れません」と付言されているものの)ようやく藤木清子を読むための重要なテキストが出現したのである。今後、新興俳句のみならず俳句表現史を問ううえで不可欠の一書となろう。
藤木清子は謎の多い俳人である。生没年さえ不明のこの俳人について川名大は次のように記している。
藤木は初め「水南女(みなじょ)」と号していたが、日野草城主宰の「旗艦(きかん)」の昭和十年二月号に、「広島県 藤木水南女」の俳号で初めて句が載る。翌年、夫と死別、子を持たぬ寡婦となった。同年九月に藤木清子の俳号となり、昭和十三年の初めに神戸に転居。以後、十五年まで「旗艦」誌上で心境俳句や戦争俳句に佳品を発表したが、昭和十五年十月号に「ひとすぢに生きて目標うしなへり」を発表したのを最後に句作を断った。「旗艦」昭和十六年一月号に「保護色と言ふことについて」という最後の文章が載るが、身体的にも文学的にも挫折せざるを得ない困難に立ち至ったことを窺わせる内容である。以後、藤木清子の消息は不明のままだ。(前掲『現代俳句』上巻)
なお川名はその後、藤木の投句開始時期について、昭和六年に「蘆火」に藤木水南女の俳号で投句を開始したとも述べており(前掲『挑発する俳句 癒す俳句』)、全句集にも昭和六、七年の藤木の句が見られる。
ここでもう少し川名の言に従おう。川名は藤木の句を次の二つの観点から藤木を「俳句表現史上、新興俳句随一の俳人」と評している。
ひとりゐて刃物のごとき晝とおもふ
しろい晝しろい手紙がこつんと来ぬ
晝寝ざめ戦争厳と聳えたり
戦死せり三十二枚の歯をそろへ
初めの二句がいわゆるエスプリ・ヌーボーの領域。次の二句がいわゆる戦争俳句(銃後俳句)の領域。(前掲『挑発する俳句 癒す俳句』)
川名はこのように述べたうえで、これらの句において「寡婦の視点」から新興俳句の新感覚が発揮されている点、あるいは「寡婦の視点から銃後の世への率直な思い」が表現されている点に独自性を見出している。すなわち、「寡婦」という境遇が自らの方法の発見へとつながり、そこから生まれた「刃物のごとき晝」という新感覚や高野窓秋にはじまる新興俳句の「白」の表現の更新、そして渡辺白泉とは異なる場所から生まれた戦争句こそが藤木を「新興俳句随一の俳人」たらしめているのである。
前掲の二句(「ひとりゐて」「しろい晝」)については、宇多もまた『イメージの女流俳句』において高い評価を与えている。しかしながらこれらの句を生みだして以後の藤木について宇多は次のようにも評しているのである。
昭和十四年にもなると、藤木清子の俳句は足踏状態になり生彩を欠いてゆく。(略)せいぜい自嘲し、憐み、自暴気味にふるまうことが藤木清子の自愛の表現であったと思われるのだが、それでいて一般社会の中でのモラルにそって生きている、というやり場のない壁とでもいえばよいのか。この壁の向うへとどかぬ視力の限界内での感情の吐露はひたすらなる反芻にすぎず、もはや新たなる言葉空間を展開する突破口はどこにもみられない。(略)なまじ文学の一端に触れた藤木清子の知性は、日常と熾烈に向い合う現実の中でますます自縄自縛の痛みにさらされていたように思えるのだ。
宇多は全句集に収録された講演録のなかでも「目標としていたものが文学であったとして、自らの何がどうその文学なるものと接しているのか、そこのところが自分でわかっていなかったのではないか」と述べている。いわば言語表現が自らの生と切り結ぶときに生じる火花としての作品を、戦時下における寡婦という特殊な状況におかれたことによって藤木はほとんど偶然に掌中のものとしていたのであった。そう考えるとき藤木の文学的夭折は必然であったとも思われてくる。
ところで、講演録のなかで宇多は、こうした藤木の作品のみならず、戦時下にあって新興俳句運動が俳句史上重要な実績を残したこと、そしてそのなかに藤木清子という一人の人間がいたこと、そして彼女が懸命に生き、作家としての生命を燃焼させていたことそれ自体にも意味を見出している。これを「新興俳句に関った女性の数が少なかったせいもあろうが、その僅かな数の女性のうちでいわゆる主婦俳人として戦前戦中戦後を生きぬいてきた女流は、ほとんど無に等しい」(前掲『イメージの女流俳句』)という宇多の言葉と重ねてあわせてみるとき、宇多がこの全句集に込めた思いがいっそう明らかになってくる。「後記」の末尾に付された「このささやかな一冊を、お若い方々が手にしてくださることを期待しております」という一文が、決して看過できないそれとして立ち上がってくるのはまさにこのときである。
かつて「未定」の同人でもあった宇多は、「戦後派」の向こうを張ったいわば「戦無派」の俳人たちと行動をともにすることがあったが、現在の二〇代や三〇代の「若手」はその子ども以降の世代に当たる。いまや戦争を知らないどころか「戦無派」の仕事さえも僕らには次第に遠いものとなりつつある。宇多のささやかな焦燥は、先人たちや自分たちの仕事をもはや受けとめることができなくなりつつある新しい世代への危惧にその要因のひとつをもとめることができようか。それはいわば「歴史」をなおざりにする表現者への警鐘でもあろう。
だが僕はややもすると、「新興俳句随一の俳人」であり懸命に生きたひとりの人間としての「藤木清子」を知ったうえで、それでもなお「藤木清子」を看過しようとする衝動に駆られることがある。
思えば、僕らの目の前にはいつだってカルチャーセンターの俳句が大量に流通していたし、「俳句って楽しい」ものであった。その一方で、それらを批判する言説さえもすでに過去のものとなっていた。女性は俳句をつくるものだったし、女性の多数を前提にして俳壇や総合誌は運営されているものだった。そのようななかで、懸命に俳句をつくることには共感できても俳句に殉ずるなどという文学青年らしい血気など正気の沙汰とは思えなかった。僕たちには俳句に「未来」を見出すことはできなかったけれど、そこにはいかにも便利なテンプレートとしての「過去」があった。そしてそこから反射的痙攣的に生み出される表現を、あらかじめ用意しておいた「俳句」という名で呼ぶことが、ほとんど唯一といっていいほど確かな「現在」の手ごたえであったような気がするのである。いわば「歴史」を知らないし参画するつもりもないというその白痴的な素地と身ぶりとにおいて、ようやく僕らは決定的に「僕ら」でありえたのかもしれなかった。
だから僕は、宇多や藤木の志の前にあまり不用意に襟を正すようなことはするまいと思う。しかし本当のことを言えば、藤木の文学的夭折を自らのものとして受けとめようとする意志とは、いまやそういうふうに現れるものなのではないだろうか。僕たちがその不遜な出自と振る舞いに目を凝らしつつそれでも詠うのであれば、それは「自縄自縛の痛み」を抱えつつそれでも詠った藤木のありかたと、どこかで交錯するものであるように思われるのである。