俳句時評 第79回 外山一機

溺愛遊び

高柳重信はかつて次のようにいった。

僕は、だから、俳句を選択した動機の中に含まれている半ば無意識に似た敗北主義こそ、逆にさかのぼって俳句の性格を決定する重要な要素であり、そこから無意識に引き出される虚無主義の沃花こそ、今後の俳句の当然の課題ではなかろうかと考える。(「敗北の詩」『太陽系』昭和二二・七)

偽前衛派の旗印は、いつも「半面抵抗、半面自慰」なのだ。俳諧は、しばしば本歌と称する貴族的文学を裏打ちとして成立している。貞門・談林の俳諧から、万葉・古今・新古今など、おびただしい本歌の供給源を抹消したとき、そこには何が残るだろうか。芭蕉の全体を支配するものは、やはり、この「本歌どり」の亜流精神だ。例句をあげるまでもなかろう。西行・雅経・順徳院・守武・良経・後鳥羽院、等々、それは、芭蕉みずから本音を吐いたごとく、「西行ならば歌よまむ」の亜流精神の氾濫だ。(「偽前衛派」『太陽系』昭和二二・一二)

「敗北の詩」にせよ「偽前衛派」にせよ、これらの言葉を支えているのは―あるいはこれらの言葉によって現出せしめたものは―高柳の作家としての自負であったろう。「敗北の詩」ほどに高らかな勝利宣言を掲げることができる者は、いったい、いまどのくらいいるだろうか。しかし僕にはそのような状況がたんに現今の俳人の作家的堕落によるものだとも思えない。むしろ、高柳のこのような自負心に安易に共鳴することこそ状況に対する無知の証明ではないかとさえ思われるのである。ああ、「僕は裸だ」と叫ぶ王様の口ぶりの何と物欲しげであることか。王様の姿を目にして思わずも叫んでしまったかの少年のごとく、僕もまた言おう、すなわち「しかし王様、それがどうかしたのですか」。

実際、本欄でも何度かとりあげられている高山れおなの第三句集『俳諧曾我』にしても、その厖大な引用を亜流精神の具現と呼ぶならまさにその通りであったが、ここに高柳のいうような亜流精神への逆説的批評を見出そうとするのならば、それは虚しい仕儀である。『俳諧曾我』には「俳諧」への嗜好がうかがわれるが、それが俳句形式を仮りた「俳諧」なるものへの志向として具体的に実践されるなかで、その実践がどこまでも極私的なそれであろうとしたことが、翻って、たしかに僕らがよすがとするところの俳句形式に対する問いへの展開を示唆してもいる。しかしながらそのような批評精神など「なかったこと」にしたほうが、むしろ本句集のたたずまいを的確に捉えられるようにも思う。

そうでなければ、たとえば『俳諧曾我』のうち『詩経』を下敷きにして制作されたという「三百句拾遺」について、高山が一茶や金子兜太による前例を指摘しつつ「原詩との関係がはなはだ行き当たりばつたりなのが拙作の特徴」と述べる事態の本質は見えてこないのではないか。まぎれもなくそのように制作された句群は、それが「拾遺」という名で編纂されることによって、とりあえずは一切の読みを受容した後に、その実これらの句が「はなはだ行き当たりばつたり」であり「拾遺」であるにすぎないという事情によってその一切が灰燼に帰するのである。その意味では『俳諧曾我』を読んだ後に草の一本も生えはしないし、ついに何ものをも汲み出すことのできない句集であった。

思うに、いまや僕たちはみな裸なのであって、服を着ることなど今更恥ずかしくて到底できることではない。しかし裸の王様が着衣に執着したように、僕たちにも少なからず着衣への愛着はある。だがそれは結局虚ろなお慰みにすぎないだろうし、だからといってそのような自分を嘆く必要もない。いわば、いまや俳句形式への溺死がありえない以上溺愛もまたありえないが、一方で「溺死遊び」をすることができるように僕たちはまた「溺愛遊び」をすることもできるのである。だから僕は、語彙と俳句形式の濫觴たる本句集に対して爾後「解読」が進められてゆくのを畏敬の念をもって眺めていようと思う。どうかこの遊びが遊びに終始しますように。そしてどうか、どこからか押し寄せてきた津波がこの花園を荒らすことのありませんように-思えば、『俳諧曾我』に収められた「原発前衛歌」のなんと美しいことか。これもまた「原発」への溺愛遊びであり俳句形式への溺愛遊びであった。

げんぱつ は おとな の あそび ぜんゑい も
はる の よ の ゆめ の はんげんき は しらず
しろく て ぷよぷよ えだのゆきを も たかやまれおな も
ほうだう に よれば かんしようじやう は はたたがみ
むりやうくわう むへん げんぱつ によらい うん

高柳重信は自らを敗北者であるとしたが、僕たちに敗北はありえない。戦後派の幸福が、彼らが自らをもって敗北者を任ずることできたことにあったとするならば、決して負けることのない僕たちは不幸だろうか。いやむしろ、もはや負けるはずがないのだから、安心して負けたふりができる幸福をかみしめればよいのではないか。ああ、だから僕もまたかの王様のごとく叫んでみよう、すなわち「僕は裸だ」!

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