手塚敦史氏の『トンボ消息』では、うすらいだトンボの色彩があわく刻印される、そこここの文字のなかで、なにか夜毎のささめきがひろがっては消えて、また、ひとつのことばを映しだす。すかしてみるように。そう、夜毎になにかがうつろうその瞬間を見るようにして、たとえば、思い浮かべるのはトンボの翅。そのとうめいな翅のいくつも並べられた標本を思い浮かべる。読み進めていくうちに、たしかにトンボのならぶ標本が脳裏をよぎった。
そういえば、標本を作るときには、昆虫をていねいに洗ってから、「展足」という行為をすると、いつか習ったことがある。「展足」とは、昆虫の肢や触覚を、ピンセットをつかって左右対称になるように整えることらしい。すでに魂のぬけてしまった虫の肢体を整えなおして、あらぬ方を向いた魂の居住まいを正すような、その虫の肢のひとつひとつに神経を収束させる集中の時間がすぎる。肢には大きなものや、小さなものがある、それらすべてがあらゆる方途でまとめられて、時間を引き留めるようにしてそこに集中する。それは、とても精密な行為にちがいない。こちらも、吸い込まれるような感覚を覚えてしまう。
もしも水をためる中の
物に かつての世の事を
うつせたら
一滴、二滴、
ひろがった中の
物は 水上に照り返って揺らぎ、
まなざしという形であらわれた、「かつての世の事」は、死んだ虫の抜け殻の魂ではないかもしれないが、「波紋」として、あるいは「残光」や「残響」としてそこにある。あったものの名残りとしてそこにある。それがとても楽しかった。
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紙のうえでゆれている、たとえば大きなものや小さなものが、文字であるという喜びのなかにある。ことばであると認めるまでの時間差で感覚だけがすぐにタスキをわたして走者は背後にそれる。そのようなことがある。リレーであり、文字の連動ではなく、それぞれが関節的な動きをしている。「あなたのハートに仏教建築」では、すでに関節が独立して自由な動きをしている。そのなかで、肥大させる体の部位が共鳴している。構築されたもののように、そこには病巣というよりも、可変していく肉体のそのもののようすが見え隠れする。酵母菌がひろがっていくように肥大していく。榎本櫻湖氏の狙いのなかで、いくつかの散文詩は文字の範囲で、あるいは文章の範囲で肥大していくのだが、その肥大の速度にあわせてピントが調整されるのではない。肥大したり萎縮している病巣の遠近感とはまったく異なる法則性でピント調整が行われるために、それが焦点をあわせて像を結んだとしても、肥大や萎縮にともなって動く本体の全体像を追尾して浮かべるのではないように思える。むしろ、それとは別のまったくちがう眼前の空間を浮かべたり、もとからぼやけているように見えたりする。
夥しい残骸に緊縛される視界へ、その四方へ
と延びる陰惨な習俗、そこからさらに吹き渡
るようにして煤けた意匠に、無論殊の外猥雑
さから転がり落ちるまでもない……いずれに
せよ集積と云いながら痺れていった涅槃は、
包まれた《砒素》状に縮んでいくのだし、紙
束の中から地衣類の艶やかな埋没に縋るよう
にして、回想する漂泊は陰る怨嗟の果てへ運
ばれる……「末端肥大」
そしてそれを体の部位として提示したときには、自分では見ることのできない体内の内部をのぞき見たような気がする。それは直接的な喜びが肥大によって阻害される喜びになる。