「戦後俳句を読む」18人からのご挨拶
新しく始まる連載「戦後俳句を読む」を担当する18名にそれぞれの思いと自らについて語ってもらった。いずれも、現在の俳句界、川柳界を支える中堅作家・論客である。
筑紫磐井【楠本憲吉・戦後俳句史総論担当】
「―俳句空間―豈weekly」で共同研究<相馬遷子を読む>というシリーズを68回にわたって行い、現代俳句が忘れていた特異な俳人相馬遷子の再評価を試みた。同じ手法を通じて<戦後俳句>というより大きな現象を再評価してみようと言うのが今回の企画である。18人の総勢からなる共同研究は、ちょっとした”プロジェクトX”である。個々の作家研究も注目されるが、それらが総合されて全体として浮かび上がる<昭和>や<戦後>とは何かという問いかけは、今まで試みられなかった壮大な曲調を示してくれるかもしれない。特に、戦後の代表作家である飯田龍太、森澄雄、金子兜太、高柳重信の4人の登場しない偏愛的戦後俳句史は貴重である。18人の方々の御協力に感謝する。
さらにこの「俳句」の中には、自由律俳句や川柳という、伝統俳句派からは別のジャンルのようにみなされてきた不幸な短詩型が入っているのもユニークだろう。私は、こうした戦後俳句史全体を堀本、北村氏と再構成するために議論したいと思っている。
と同時に、もうひとつ、個別には楠本憲吉という俳人を取り上げて評価してみたいとも思う。常に、シュールにしてスマート、ニヒルで通俗的なこの俳人はあくまで時代に先駆けていた。いまは楠本憲吉の部分的模倣に過ぎない現象があまりにも多い。
【筑紫磐井 -Tsukushi Bansei-】
1950年、東京生まれ。「豈」発行人。句集に『筑紫磐井集』、評論集に『定型詩学の原理』など。あとのもろもろは省略。
藤田踏青【近木圭之介担当】
明治44年に荻原井泉水が創刊した自由律俳誌「層雲」(平成4年に「層雲自由律」と「随雲→後に層雲と改名」に分裂し、現在に至る)は今年百周年を迎える。昭和40年に井泉水は秋桜子よりも先に日本芸術院会員になっているが、戦後に俳壇とは一線を画し、孤高の姿勢を貫いた。その為、自由律俳句としては山頭火、放哉ブームを除いて一般俳壇との交渉は少なく、その現在に至る変遷は余り知られていない。その戦前、戦後の自由律俳句に於いて常に現役作家として存在し続けてきた近木圭之介の作品を通して、山頭火、放哉とは異なった戦後の自由律俳句の表情を示す事が出来るのではないかと考えている。
近木圭之介(旧号:黎々火)は明治45年生まれの俳人、詩人、画家である。山頭火が山口県小郡町の其中庵に入居した昭和7年に「層雲」に加入。家が其中庵に近かった為、30歳も年下であったが、山頭火との親交が深く、有名な山頭火の「うしろ姿」の写真を撮ったのが圭之介である。その作風は長律から短律、詩性を尊重する短詩へと幾度も変化、進化させており、生涯七千句との由。平成21年、97歳で没するまで現役作家として活躍しており、荻原井泉水が明治末年に興した自由律俳句の継承者として貴重な存在である。
著作には「近木圭之介詩抄」「ケイノスケ句抄」「近木圭之介詩画集」「日没とパンがあれば」などがある。
筆者は昭和24年生の団塊の世代。攝津幸彦氏と同じ大学の2年後輩であるが、在学中は氏との接触無し。昭和52年に「層雲」に参加。平成16年より俳句、川柳、一行詩のコラボレーションを企図し、短詩型交流句会「でんでん虫の会」を主宰。平成22年に自由律俳句の復権を目指し、各結社、グループの枠を超えた懇話会「自由律句のひろば」を発足。
現在「層雲自由律」「豈」同人、「でんでん虫の会」代表、「自由律句のひろば」世話人。
土肥あき子【稲垣きくの担当】
数年前、尊敬する女性俳人から「青春の名残が強い30代でもなく、否応なく老いを認めざるを得なくなる50代でもない、40代でしか詠めない俳句を作りなさい」と言われた。その言葉に触発され、さまざまな女性作家の40代の作品を集中して読んでいたとき、稲垣きくのに出会った。それまで、元映画女優、第二句集『冬濤』(1966)で俳人協会賞初の女性受賞者というほどの情報しか持ち得なかったが、その句集には〈夏帯やをんなの盛りいつか過ぎ〉〈歯でむすぶ指のはうたい鳥雲に〉〈つひに子を生まざりし月仰ぐかな〉など、ひりひりするような女が描かれ、いつしか胸に巣食って離れない俳人となった。
稲垣きくのは1906年、神奈川県厚木市生れ。20代には東亜キネマ、松竹映画に数多く出演。1937年、大場白水郎の「春蘭」に投句を開始する。戦争で一時中断後、1946年「春燈」創刊を知り久保田万太郎を師とした。
1970年に出版された第三句集『冬濤以後』は、牧羊社の「現代俳句15人集」に収録され、選ばれた15人は飯田龍太を筆頭に錚々たる顔ぶれである。山本健吉の推薦の言葉「(略)私には短歌や俳句のような伝統詩型は、今日では深く傷ついて生命の危機にあえいでいる時代であるように見える。それが輝かしい過去に持った栄光の時代を、新しいエスプリによって回復できるかどうか。だがともかく、その困難な課題を身に引受けているのが、ここに選ばれた十五人の作家たちだろう。(略)」とあり、才気に満ちた戦後派世代を強く生み出そうとする覚悟を感じさせる。
しかしながら俳人稲垣きくのは、果たして現代どれほど認知されているのだろうか。今回の機会を得て、この魅力的な女性の作品に、時代やキーワードといった縦横無尽の光りを当て、読み解いていくことができるかと思うと、今から胸が高鳴る思いである。
【筆者プロフィール】どい・あきこ。1963年、静岡市生れ。鹿火屋同人。句集「鯨が海を選んだ日」「夜のぶらんこ」、エッセイ集「あちこち草紙」。信濃毎日新聞他に「あそびの風景」を連載中。
仲 寒蝉【赤尾兜子担当】
長野県佐久市在住の仲寒蝉と申します。よろしくお願いします。
磐井さんとは「相馬遷子研究」を一緒にやらせていただき、一人の作家を深く掘り下げたこと、その作家の時代の中での位置付けについて考えをめぐらしたこと等とても勉強になりました。だから今度のお誘いにも二つ返事で参加させていただくこととしました。
私は結社としては「港」所属、従って水原秋桜子-能村登四郎-大牧広という師系となります。また「里」という梁山泊のような同人誌にも所属しており、どちらかというと気分的にはかつての前衛俳句に共感を持っています。
今回取り上げようと思っているのは赤尾兜子、その理由は
1)兜子と言えば「音楽漂う岸侵しゆく蛇の飢」しか知らず、つまりは余り先入観なしに入れそう(遷子の時もそうだった)であること。
2)私の所属している現代俳句協会の第9回の協会賞を受賞し、そのことがきっかけで俳人協会が分離独立したと聞き及んでいること。
3)「里」で親しくさせていただいている媚庵さん、短歌の世界では藤原龍一郎さんがかつて藤原月彦の名で兜子の「渦」に所属されていたこと。
4)私と同じ大阪出身であること。
というところでしょうか。兜子の俳句は今ほとんど読むことができず、その「忘れられそうな感」もやる気に火を付けました。幸い色々と探し回って『赤尾兜子全句集』を手に入れることができたので、とりあえず最小限の必要文献は手元にある訳です。まずはこれを読み込むことから始めたいと思います。
北村 虻曳【戦後俳句史総論担当】
【自己紹介とコメント方針】
私は俳句・川柳あるいは短歌と同一外形の、定型短詩と称するものを作っています。長く細く実作だけを行ってきた者です。のろいあゆみを定型短詩集「雲の模型」にまとめ2005年に出しました。現在は、大阪の「北の句会」と短歌歌会「SORA」に出席し、「豈」に主として5・7・5形式の作品を出しています。
私がこうした短詩の実作で目指すのは、僭越ながら新発見の意味・内容であり、次にそれを盛るための新しい構造です。「思想」という言葉が社会性ということを前提とするなら、短い5・7・5形式ではそれを盛ることは困難ですが、せめて「思考」の痕跡をとどめ得たならばと思います。言葉は易しくても難しくても、一般的でもまた専門的であってもかまわないと思いますが、いわゆる俳句界の外の読者も視界に入れることを重視します。私自身がマージナル・マンですから。
何事においても、人気のない周辺を徘徊してチャンスをねらうことが好きで、やってきました。球の後ろについて走る集団を抜けて、どこか隅っこやはずれで走りまわり、セレンディピティあるいはたまに眼前に転がり込む僥倖を拾うことはできないだろうかと。他人と身体をぶつけて競り合うのは最終手段です。それで何かの仕事できるかと言われると、どうなのだろう。
まして俳句は、効率上もっともジャンル集団固有の了解事項に依る分野のようです。また批評となると、これは軌跡を頭に入れてなおかつ先頭にキャッチ・アップし追いかけるものであり、勉強無しでは済まない。争うリキもいる。などと考えると、今回の仕事、私は大変ミスキャストと言うことになります。しかし渦中からは見えないものもあるのではないかと信じ、国技定番のキーワードをこなすよりも、新たなキーワードを見つけることを目標に始めてみたいと思っています。
岡村知昭【青玄系の作家担当】
このたび末席に名を連ねさせてもらえることになりました岡村です、みなさま始めまして。
「青玄系の作家」を中心に参加します。「青玄」は思えばわたしが本格的に俳句を始めたときに所属した結社、初学の大恩にはいまだ感謝に絶えないわけですが、以前一文に書いたようにほとんど幽霊会員のまま過ごしたので、ある意味では冷静に見据えられるかもしれない、と思ったりもしていたりします。何より自分がこの結社では一歩を踏み出す勇気を学ばせてもらい、そのことが今の自分の俳句での活動につながった、これこそが一番の恩であります。ならば恩を返すのならこの勉強会もまた次なる一歩でありましょう。
このように書いているといろいろとご叱正もいただこうかとは思いますが、まずはここからは始まりということでご寛恕いただければ。まだ見ぬ一句へ心血注がれた諸先輩方の息遣いを改めて見直す機会を得て、わが一句への足がかりを掴みたいところなのです。クローゼットに眠っている数多くの書籍や紙片たちが早く早くと出番を待っているので、もう少し待ってくださいもうすぐだからねと言い聞かせているところです。
今後ともよろしくお願い申し上げます。
吉澤久良【時実新子担当】
【「戦後俳句を読む」 自己紹介及び担当作家について】
時実新子を担当する吉澤久良です。所属誌及び経歴は以下の通りです。
2004年 川柳誌『バックストローク』同人
2009年 川柳誌『ふらすこてん』創刊同人
2010年 川柳誌『Leaf』創刊、発行人
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縁があって、2000年ごろから、「北の句会」(堀本吟主宰、俳句と川柳と短歌のクロスオーバーの会)に出席するようになりました。川柳を選んだのは、その三つのジャンルの中で川柳が一番自由に表現できそうな気がしたからです。当時の「北の句会」に出席していた川柳人の句が魅力的に見えたこともあります。そういうわけで川柳にしようと決めたのが2003年ごろで、『バックストローク』に参加させていただきました。2009年に『ふらすこてん』の創刊に参加し、2010年に、清水かおり、畑美樹、兵頭全郎との四人誌『Leaf』を創刊しました。
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時実新子を取り上げたのは、川柳以外の方にもっとも名前が通っている川柳人であることと、時実新子の存在が現代川柳に大きな影響を与えていると思ったからです。現在活動中の川柳人のほとんどは、「川柳大学」などで時実新子となんらかの関係があったり、リアルタイムに近い時点で時実新子の句を読んだりしています。私自身が川柳を始めた時点では時実新子の活動はほぼ終わっており、また、時実新子の句は作風が違うのであまり読んでいませんでした。私は時実新子以後の世代(という括り方があるとしたらですが)に当たるのでしょう。こういう機会を与えられて、時実新子の句を、特に私性の問題を中心に読んでみるのも意味のあることだろうと思いました。時実新子が活躍していた当時の状況を知らない私の事情からすると、時実新子の句をテキストとして読むしか方法がありませんので、川柳に今までなじみがなかった方々と同じ位置からの読みになります。そういう視点から時実新子の句を読むというのは、川柳界に対しても新鮮な意味があると思いますし、川柳外部の方にとって川柳への導入になるかもしれないと思います。近代的自我の確立と私性の問題は、現在の川柳界において最も大きな問題の一つであり、他のジャンルでも無関係ではないはずです。特に短歌では、私性はかなり重要なテーマであるように見受けられます。
具体的には、『新子』『月の子』『有夫恋』の三つの句集を読む形で進める予定です。その過程で現代川柳の問題点を多少とも整理できれば、と考えています。
深谷義紀【成田千空担当】
天為の深谷義紀です。前回の「相馬遷子研究」に続いての参加となりますが、今回は成田千空を採り上げたいと思います。
数年前、青森に住んでいました。ある週末、ふと立ち寄った「ふかうら文学館」の売店に並んでいた一冊の句集を何気なしに買い求めたのが、成田千空を知るきっかけでした。そして、すぐに衝撃を受けました。北の大地に生きることにこだわり、それを作品として昇華させた俳人がそこにいました。
千空没後まだ日が浅いことから、本企画の趣旨に合うのか多少の迷いもありましたが、敢えて千空に取り組むことにしました。そうさせたのは、第一に千空が最後までこだわった青森という土地に対する筆者自身のオマージュです。千空を端緒として青森県内の俳人の作品に触れるうちに、青森に息づく肥沃な俳句土壌の存在を知りました。千空を、その代表として採り上げたかったのです。そして第二に、千空という作家をもっと語ってみたいという単純な想いです。なるほど千空は晩年、蛇笏賞の受賞、萬緑代表や読売新聞俳壇選者への就任など一挙に世間や俳壇の注目を浴びる存在となりましたが、それ以前は(敢えて誤解を恐れずに言えば)地味な存在だったと思います。萬緑関係者を除けば、一体どれほどの人間が千空の作品を知っていたでしょうか。第2句集「人日」で俳人協会賞を受賞したのは、千空67歳の時。その「人日」も刊行は東京の大手出版社ではなく、青森県文芸家協会出版部です。故郷五所川原を離れなかった千空らしいエピソードですが、当時は極めて異例とも評されました。そうした意味で、千空はもっと早くから注目されて然るべき作家だったと思います。
骨太の風土俳句。成田千空という青森に執した一人の作家を通して、俳句形式の可能性について考えてみたいと思います。
北川美美(きたがわ びび)【三橋敏雄担当】
【経歴】
1963年生まれ。群馬県桐生市出身。
歌手・渚ようこより新宿「汀」に於ける句会に誘われ、長谷川知水(三田完)、山本紫黄を知る。
2004年 「面」入会。山本紫黄に学ぶ。
2007年 山本紫黄永眠。
2008年 超結社句会「つうの会」参加。
池田澄子と神奈川近代文学館へ同行した折、筑紫磐井と知り合い、2009年「豈」入会。
現在、「豈」「面」同人。現代俳句協会会員。
【抱負】
俳句は「志して至り難い遊び」(『まぼろしの鱶』後記)と三橋敏雄は書いている。
しかし、その「遊び」は変貌をくりかえしながら、険しい崖となり、読者に迫りくる。今、その崖にしがみつく。
三橋敏雄を戦後俳句史の第一人者と評するコアファンが多い。ツイッタ―では三橋の第二句集『眞神』を自働配信する「眞神bot」なるものもある。正統派の男の俳句という印象があり、純粋な俳句を求めた俳人であることを確信する。しかし、簡単には読めないのだ。どう読めばよいのかを論じた、いわゆる作品論は、かなりマニアックなファンで無い限りお目にかかれない。俳句は誰にでも読めるものであるが、三橋の句の本質へは読者自身がその世界へ入っていかねばならない。三橋はあらゆる意味で崖である。今、この時代だからこそ、昭和を生き抜いた「三橋敏雄」を読みたい。
2011年は三橋敏雄生誕91年にあたり、三橋初期制作年から約75年経過することになる。これから書かせていただく三橋論は、「先の百年も三橋作品が名句として残る」ということを署名するひとつに過ぎない。
もがきながら三橋の崖を登るところを見守っていただければと思う。
【三橋敏雄(みつはし・としお)】
大正9年11月8日、八王子市生まれ。昭和10年、当時の新興俳句運動に共鳴して作句開始。渡辺白泉・西東三鬼に師事。句集に下記10冊。および朝日文庫『現代俳句の世界』全16巻解説ほか共著多数。第14回現代俳句協会賞、第23回蛇笏賞受賞。現代俳句協会、日本文藝家協会会員。俳誌「壚坶(ローム)」監修。昭和21年より同47年まで帆船練習船日本丸、海王丸ほかに事務長として歴乗。平成13年12月1日没。※1)
*句集製作年代
1.太古 昭和10年―16年(昭和16年6月刊・昭和56年11月新版刊)
2.まぼろしの鱶 昭和10年―39年(昭和41年4月刊)
3.眞神 昭和40年―48年(昭和48年10月刊)
4.靑の中 昭和10年―22年(昭和52年3月刊)
5.弾道 昭和13年(昭和52年3月刊)
6.鷓鴣 昭和40年―53年(昭和54年1月刊)
7.巡禮 昭和53年(昭和54年10月刊)
8.長濤 昭和54年―56年(『三橋敏雄全集』昭和57年3月刊所収・平成8年11月新編纂刊)
9.疊の上 昭和57年―63年(昭和63年刊)
10.しだらでん 昭和63年―平成7年(平成8年11月刊)※2)
※1)ふらんす堂テーマ別句集『海』(平成3年刊)に記された三橋敏雄作成の「略歴」に、没年を追記した。
※2)※1)同様、句集名『しだらでん』を追記した。また三橋敏雄の句集は、必ずしも各句集の所収作品の制作年代順の刊行ではない。
飯田冬眞【齋藤玄担当】
【自己紹介】
ビートルズが日本に初めてやってきた午年の冬に生まれたので冬馬、あらため冬眞です。好きな作家は、西東三鬼、石田波郷、飯田龍太。高校時代は三橋敏雄の解説が面白くて、朝日文庫の「現代俳句の世界」シリーズを手当たり次第読んでいました。その後、歳時記や俳句雑誌の編集を経て、現在「豈」同人。
【選んだ理由】
齋藤玄を選んだのは、自分と同じ北海道出身であること。ただ同郷であるだけではなく、齋藤玄も私も歌人の石川啄木が住んでいた町に生まれているのです。齋藤玄は函館市青柳町(旧称春日町)で、私は札幌市中央区で生まれました。さらに玄が師事したのは西東三鬼と石田波郷。私の好きな俳人と一致します。まあ、自分勝手なこじつけですね。
【作家紹介】
つぎに齋藤玄の略歴をたどってみます。大正3年函館市青柳町生まれ。昭和12年従兄の杉村聖林子に誘われて、「京大俳句」に参加。西東三鬼、石橋辰之助の指導を受けました。昭和15年俳誌「壺」を創刊するも19年に休刊。17年第1句集『舎木』。18年「鶴」の石田波郷に師事、同人。石川桂郎と知り合い終生、親交がありました。19年第2句集『飛雪』。20年「壺」復刊。28年「壺」休刊。この頃から句作を中断。理由は「俳人の宗匠根性、売名行為に厭気がさし」たから。43年個人誌「丹精」発刊。44年波郷逝去。47年第3句集『玄』。48年詩集『ムムム』、50年第4句集『狩眼』。54年第5句集『雁道』、55年第14回蛇笏賞。受賞式をまたずに5月8日逝去。56年遺句集『無畔』。
【今後の抱負】
一言で言うと、齋藤玄は高い精神性を持った凝視と独白の作家です。母、妻、師、友、そして自身の死を詠み、風土、自然を凝視しながら自己の内面を深く掘り下げ、煩悶や葛藤といった独白を純粋な詩にまで昇華させていった稀有な作家です。玄の作品を通して、逆境を超克することばの純度について考えてみたいと思っています。
以上
しなだしん【上田五千石担当】
【戦後俳句を読む(0)】
今わたしの手には上田五千石第一句集『田園』がある。平成2年、春日書房から「畦」創刊二百号記念として刊行された「復刻版」、その1,000部の中の一冊である。
真っ青で手触りのある函。函をひらくと白い表紙の本誌とグレーの小冊子が出てくる。
小冊子はこの復刻版に寄せられた”『田園』交響集”である。この交響集にはまたのちにふれることとし、句集を開く。
句集『田園』の一句めは、
ゆびさして寒星一つづつ生かす 五千石
である。
五千石の作品としては語られるとこの少ない句であるが、処女句集の第一句めに置かれた、五千石の意志のような句であると私は思っている。この句にはじめてふれたとき、私は「ああこういう俳句を作りたい」と切に思ったものである。その思いは今も変わっていない。
★
改めて上田五千石の略歴を記しておく。
昭和8年10月、東京生まれ。本名、明男。
上智大学文学部新聞学科卒。
昭和29年、秋元不死男に師事、「氷海」「天狼」に投句、「子午線」に参加。
昭和31年、「氷海」同人。
昭和43年、第一句集『田園』で俳人協会賞及び静岡県文化奨励賞受賞。
昭和48年、「畦」を創刊主宰。多くの俊英を育てる。
平成9年9月、63歳にて死去。
句集に『田園』『森林』『琥珀』『天路』など。
著書に『生きることをうたう』『春の雁』『俳句』『旅と風景句』など。
本略歴は『完本 俳句塾 眼前直覚への278章』から抽いた。
さて、五千石が63歳で亡くなったのは、平成9年である。平成9年は私が俳句をはじめた年。
五千石没後14年。今年は上田日差子氏が第34回(平成22年度)俳人協会新人賞を受賞された。今改めて五千石の俳句をひもとき、「現前直覚」を再考するのもよい頃ではないかと思うのである。
【しなだしん】
昭和37年、新潟県柏崎市生まれ。東京都新宿区在住。
平成9年「青山」入会。平成11年「青山」同人。俳人協会会員。
平成14年「田」創立に編集人として参加。平成18年まで同編集長。
平成20年、第一句集『夜明』(ふらんす堂)上梓。
平成22年「俳句研究」第6回三十句競作入選(第1位)。第25回「俳壇賞」次点。
平成23年「俳句研究」「俳誌展望」担当。「青山」当月集同人。
「青山」「田」「OPUS」所属 俳人協会終身会員
関根かな【佐藤鬼房担当】
俳句を始めたのは、昭和の末期。ほどなく、塩竈に生きる佐藤鬼房を知った。地元紙の俳壇の選者だった。投句を続けた。自分の俳句が外部と接触した始まりだった。
俳句を作ることは、どうしようもなく個人的な作業であったのに、ふと接触を求めた。誰かと。その始まりが佐藤鬼房であったことに、今はひれ伏すような心持でいる。
私なりの観点を得て、鬼房を論じたい。
膨大な句を前に、すでに溺れそうではあるが。なんとか息継ぎをしている。正答を求めず、生死のあわいを捉えていきたいと思っている。
清水かおり【川柳作家全般担当】
昨年、『超新撰』に参加させていただいたことで、一つの自己目標のようなものができた。シンポジウムの資料で触れた、川柳史の縦線と横線の交わりを認識しなおすことである。自分たちの書いているカタチがどこから来たのかを知ることは、現在の川柳作品と向き合う大きな手がかりにもなる。六大家以降、近代史の枝葉が私たちのルーツとなっていく過程を探る必要性を持たずに作品を書いてきた柳人は多い。すでに拓かれた表現であったものに馴染んで書いているといえる。そうした多くの川柳作品に、時間軸という角度のアプローチ点を見つけたい。
この企画では、その検証上に川柳作品を提出できる喜びを感じている。時代の先端で書かれ、社会の変遷を生き抜いた言葉たちを読むことが、どのように現在の作句作業に活かされていくのか、そして、同じ線上で近代川柳史が語られるような、そういう場に少しでも繋がるものを求めていきたい。
時間を超えて、作品とその作者との邂逅を試みるのは、研究というより多くの感性との出会いのようなものだ。それはロマンに溢れている。川柳を書き始めて20年近く経ったが、どこまでも夢が続いていく詩型であるとあらためて思う。
川柳木馬・バックストローク・Leaf 所属
池田瑠那【永田耕衣担当】
【気になる句があった。耕衣って誰】
先日、俳句には関わりのない友が、旅先からくれた葉書に、こうあった。京都は上京、古書店を兼ねる茶房で何の気なしに手にとった本が、どうやら俳句関係の本だったようである。そして葉書には「夢の世に葱を作りて寂しさよ」の句が書き抜いてあった。
「耕衣って誰?」--一通りの説明は出来る、私にも。だが、本当に、耕衣って誰だろう。
永田耕衣、自らつけた戒名は「田荷軒夢葱耕衣居士」である、あの、誰か。
耕衣の句は難解とも言われるが、同時に俳句に親しみのない人間の心をも瞬時に掴む不思議な力を持っている。その力とは人間の、あるいは生命の、根源的なよろこびやかなしみに通じているような気がする。耕衣って誰だろう、ひとまずはそんな素朴な思いから、この俳句鑑賞の稿を書き起こしてみたい。
【自己紹介】
昭和51年11月18日生。
平成16年、「澤」入会。第19回短歌現代新人賞佳作。
平成18年、澤編集部加入。
平成19年、第7回澤新人賞受賞。
平成20年、俳人協会入会。澤同人指名。
堺谷真人【堀葦男担当】
平成5年(1993)4月の朝日新聞は、俳人・堀葦男の訃を簡潔に報じている。
堀 葦男氏(ほり・あしお=俳人、元日本綿花協会専務理事、本名堀務=つとむ)21日午前3時45分、心不全のため、大阪府茨木市の病院で死去、76歳。葬儀・告別式は22日午後2時から吹田市桃山台5の9の千里会館で。喪主は妻冨美子(ふみこ)さん。自宅は箕面市(中略)
東京都出身。大阪商船などに勤めながら俳句を始め、50-60年代の関西前衛俳句運動のリーダーで、62年、現代俳句協会賞。金子兜太氏主宰「海程」の同人会長。
この年、桜は花期が長かった。葬儀当日の大阪は雨。繽紛たる落花を踏みしめて人々は斎場へと向かった。年来の盟友・金子兜太は、次の一句を以て弔辞を締めくくった。
空(くう)に舞う無数の落花空に舞う
◆ ◆ ◆
筆者は昭和62年(1987)6月、葦男が講師を務める「一粒(いちりゅう)」に入会した。以来、逝去までの約6年間、句会や吟行でその謦咳に接することとなる。
当時の「一粒」は同人誌以前の職域句会。作風は有季定型を主とし、無季作品は稀であった。また、講師以下、俳酒一如の酒徒揃いでもあり、句座は常に歓笑と微醺とに包まれていた。筆者の知る葦男は快活で社交的な紳士、すこぶる大人(たいじん)の風があった。「前衛俳句の論客」という経歴から、漠然と圭角ある狷介な人物を思い描いていた筆者の予想ははずれたのである。
◆ ◆ ◆
過去の記憶は、往々にして美化される。「ALWAYS 三丁目の夕日」が描く昭和30年代が美しいのは、そのような美化(selective memory)の所産だからである。葦男の筆者におけるや、またその危惧なしとしない。それを乗り越え、葦男の人と作品に肉薄するには、結局のところ個々の俳句を実証的に読み直すほかない。戦後俳人たちを図式的・類型的な系譜学から解放し、その豊かな詩的滋養分を再び我々実作者の血肉とすること。これから始まる「戦後俳句研究」プロジェクトに対し、筆者はこのような夢を抱いている。
横井理恵【中尾寿美子担当】
天為の横井理恵です。お仲間に加えていただきましてありがとうございます。
天為の二百号記念特別号の特集「検証・戦後俳句――もう一つの俳人の系譜」で中尾寿美子を担当するまで、寿美子についてはほとんど何も知りませんでした。俳句文学館に通って資料を集め、ひたすら作品と向き合ううちに、私が少女時代を過ごした天沼に住んでいたこと、やや土地勘のある新座が終の地であったことなどを知り、親しみを感じるようになっていきました。切り口について考えあぐねていた時に、天為の会で、ある方から「寿美子の句ってわかんない!」と言われ、この人に、「なるほど、わかった!」と言ってもらいたい、という思いを強くしました。寿美子の軌跡と俳句というモノの在り方とは、あたかも年代を追って並べられた絵画展を見るように、必然を感じさせるものとして展開していくのです。その妙味を広く知っていただくことができたら幸せです。
中尾寿美子:大正8年生まれ、平成元年没。その生涯は軽やかな転身と言えるでしょう。
【筆者プロフィール】
昭和41年(1966年) 兵庫県生まれ。
平成2年 天為創刊より参加、有馬朗人に師事。
平成19年 第4回天為新人賞。
句集『天真』(ふらんす堂)。俳人協会会員。正岡子規国際俳句賞調整委員。
山田真砂年【富澤赤黄男担当】
二十余年前のある日突然、鍵和田秞子に師事し俳句を始めるようになりました。いざ俳句の地平に立ってみると多様な俳句があることに遅まきながら気がつきました。その中で、富澤赤黄男の『魚の骨抄』、『天の狼』の「金貸してくれない三日月をみてもどる」「妻よ歔いて熱き味噌汁こぼすなよ」「蚊帳青し水母にもにてちちぶさは」「夕焼の金をまつげにつけてゆく」「やがてランプに戦場のふかい闇がくるぞ」「爛々と虎の眼に降る落葉」などに強く惹かれました。
にも拘わらず赤黄男俳句に走らなかったのは、赤黄男の句は詩の延長線上にあり、そのうち詩の世界に入り込むに違いないと感じたからです。
しかし、それ以来私の頭の片隅に赤黄男が頑然と存在し続けています。
このたびの企画に参加させていただくのを機に、私の頭の中の赤黄男の存在を検証してみたいと思っております。
「戦後俳句研究」のテーマとして富澤赤黄男は若干ずれているように思いますが、戦後俳句にも影響を与えた俳人だと思いますのでご容赦願います。
【略歴】
昭和24年東京生まれ
鍵和田秞子主宰「未来図」同人、俳人協会幹事、日本文藝家協会会員
句集 「西へ出づれば」「海鞘食うて」
堀本 吟【戦後俳句史総論担当】
【A】私の役割 鼎談を通して新世代の読み方をさらに読み、戦後俳句史をみなおす。
俳歴 1986〜94「船団」。93「豈」入会。95「戦後俳句聞き語りの会」で関西在住の長老6人の出発の話を聞く。96ごろ豈関西句会→攝津幸彦句集を読む「ヒコイズム研究会」→超ジャンル「北の句会」へ。奈良で「短詩形文学を語る会」(歌人俳人柳人が交流、折口信夫 中村草田男。前川佐美雄など読む)。2000ごろ『現代川柳の精鋭28人集』の作家と交流。04、『俳句空間豈39−2特別号関西編ー関西の戦後俳句』を編集。09〜「京大俳句を読む会」(西田元次代表)。「風来」(和田悟朗代表)。:
著書92評論集『霧くらげ何処へ』(深夜叢書社)。
【B】問題意識。
* 関西の豈同人編集『豈39ー2(特別号)【関西編】ー前衛俳句』の再見、*「前衛俳句」は新興俳句の戦後版だとも言えるが、初期の「天狼」、「夜盗派」「靑玄」「縄」「十七音詩」東西前衛の交流誌「ユニコーン」が輩出、無視できぬ影響、そのヒントをさがしたい。*川柳、自由律。俳句の各詩形の相対化。川柳は、多様化を来している表現の一ジャンルとして、自立した位置を占めつつある。その先端部分は俳句の在る部分と殆ど同化している。方法が類似してきた各詩形を見直す。(以上)
兵頭全郎【戦後における川柳・俳句・短歌】
【略歴】
1969年 大阪市福島区生まれ。
2002年 ラジオ番組の川柳コーナーに投稿を始める。ネット句会「空の会」入会
2004年 川柳倶楽部パーセント入会
2006年 川柳バックストローク入会、2007年より同人
2009年 川柳結社ふらすこてん設立同人、同誌編集人
2010年 川柳誌「Leaf」創刊同人、同誌編集人
ふと立ち寄っただけのつもりの川柳。それがどうしたわけか、奥へ奥へと足を進めさせられて現在に至っています。そんな中で川柳には、学ぼうとした際に読むべきもの、川柳とはなんぞや、というものがほとんど無いことがだんだんとわかってきました。と同時に、俳句や短歌といったものに比べて様々な点で数十年単位の遅れがあることもわかってきました。
今回、縁あって「戦後俳句を読む」へお招きいただき、この機会に「戦後」という大きな時代の変化のなかで、川柳がどのように現在へと進んできたのかを自分なりに考える場にしていこうと思っています。ただ元来寡読なうえに資料も少なく、ましてや俳句・短歌に関しては完全な素人ですので、あくまで川柳の目から見た読みの文章になると思われます。
当面の材料として1993年発行の「短歌 俳句 川柳 101年 1892~1992 新潮・10月臨時増刊」を用います。刊行年ごとに各ジャンルから1句歌集より20句歌が抄出されており、三枝昂之(短歌)・夏石番矢(俳句)・大西泰世(川柳)の三氏がそれぞれに短評をつけています(刊行年に関しては一部不正確な場合もあるようですが、便宜上この本での年度分けを基準とします)。これを基に、各回のテーマに合う川柳を選び、同年度(あるいは近い年度)の俳句・短歌を比較対象として見ていく予定です。ただし川柳に関しては遺句集が多いという事情もあり、必ずしも時期的に平行していない可能性がありますが、これも併せてその時代の流れの一つとして捉えていこうと思います。よろしくお願いいたします。
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